書庫

極楽堂鉱石薬店奇譚

ウェヌスの涙

鴉花珠と朱煙管 六話

「……そんな事が」

 極楽堂の店の奥にある、土間から上がった小さな畳の間。そこで夕餉の膳を互いに並べて、奈落の焼いた干物を箸でつつきながら、由乃は風吹の事を姉に話した。

 旅館や診療所で見た、紅い煙管を吸う風吹。晶刺を入れた帰りに見た、風吹の動向。桜子や千代の祖母にその煙管を渡そうとしていた事。由乃の話を神妙に聞いていた奈落だったが、箸と茶碗を手元の膳に置くと、頭を抱えて溜息をついた。

「お姉ちゃん……あの紅い煙管って、本当に毒なのかしら……」

 由乃の問い掛けに、しかし奈落は頭を抱えたまま考え込んでいるのか、眉間に皺を寄せてしばらく黙っていた。

「……残念だが、それは本当だ。今日店に警察の者が来てな。紅い煙管の流通について聞いてきたんだが……そいつらが同じ事を言っていた。鶏冠石……砒素の毒だよ」

「鶏冠石……」

「赤い石だ。恐らくは、月宮硝子店で作られた煙管には、鶏冠石が練り込まれているのだろう。だからあのような鮮やかな赤いびいどろのような色をしているのだ」

 由乃はその石は聞いた事が無かったが、石の中には毒を持つものがある事ぐらいは聞いた事があった。まさか、自分が追いかけ回していたものが本当に毒のある危険な物だったなんて。青ざめて食事をとる手を止めてしまった由乃に、奈落は溜息をつきながら、やや怒ったような口調で呟いた。

「……だから言ったではないか、深入りはするなと。まさか私も風吹があの模造煙管に関わっているなどとは思いもしなかったから、やむを得ない部分はあるが……お前、今日の帰りに風吹を追いかけたのは、完全に出歯亀ではないか」

「うっ」

 それを言われると弱い。確かに由乃が風吹を追い掛けて真珠の卸売店に入ったり、六堂と風吹の会話を盗み聞きしたのは完全に個人的な好奇心からだった。

「……まぁ、私もあいつに子どもがいるという話は初耳だったが……それはあいつが模造煙管を使っていたという話とは関係あるまい?」

 奈落は澄ました顔でそう言っているが、由乃は知っている。由乃がその話をした時の姉の動揺を。なにせあからさまに箸を手から滑らせるし、口に入れようとした沢庵を味噌汁の中に落とすし、気付くなと言う方が無理な話だ。

「……そうね。お姉ちゃんだってもう子どもの一人や二人居たっておかしくない歳だものね」

 今度は姉が明らかにむせ込んだ。なんだかんだでこの姉はわかり易すぎる。

「ちょっ……お前……それとこれとは、今関係が……」

「あら、無くはないわ。お姉ちゃんのお気に入りの千代さんは、今二人目を妊娠しているのよ。文無あやなしさんだって結婚なさってるんだし、風吹さんにも子どもが居るんじゃあ、お姉ちゃんだけじゃない。行き遅れているのは」

「いきっ……!」

 しまった、言い過ぎたか。奈落は手にしている箸を折りそうな勢いで握りしめている。しかし、間違った事は言っていない。あの利一とかいう奇妙な人間とどうなっているのか定かではないし、姉本人が否定している以上、姉は「行き遅れ」以外に言い様がない状態だ。

「……私は、結婚など……大体、今の仕事をしながら子どもなど育てられるものか」

「いやぁ、そうとも言いきれんぞ」

 突然、土間の方から聞き慣れた男の声がした。奈落と由乃が声のした方に目を向けると、そこにはほとんど白い頭髪を練香油で後ろにきちんと撫で付けた、和服にトンビコート、臙脂色の襟巻きを巻いた老輩が居た。

「じい様……!」

 思わず、由乃と奈落は同時にそう呟いていた。そこにいたのは二人の祖父であり極楽堂鉱石薬店の初代店主、極楽院恭助その人だった。

 恭助は二人の目線を意にも介さず、ささっと襟巻きとトンビコートを脱いで小脇に抱えると、ブーツを脱いで畳の間に上がり二人の横にあぐらをかいた。そしてまだ呆然としている奈落の膳から沢庵をつまんで口の中に放り込み、ぽりぽりと小気味のいい音を立てて咀嚼した。

「ふむ、良く浸かっているな。これはお前ではなくて、鈴本の婆さんが漬けたやつだろう。ほれ、向かいの」

「ええ、沢山漬けたからお裾分けにと……いや、じい様何しに来たんですか。ここに顔を出すのはだいぶ久しぶりではないですか」

「そ、そうよじい様! 私がここに住むようになったら顔を出すと言っていたのに、結局今まで来た事無かったじゃない!」

 由乃と奈落は一瞬恭助のペースに流されそうになった。慌てて我に返り二人で問い詰めるも、恭助は相変わらず飄々としていて悪びれもしていない。

「そうやいのやいの言うな。いいじゃねえか、上手くやってるんだろう?」

「それはそうですけど……」

「それにお前、仕事しながら子どもなんてと言うが、お前の周りにどれだけ人手があると思ってるんだ。曽孫ができりゃあ儂とてここに落ち着く。父親あいつの手前おおっぴらには手伝えんだろうが、セツさんだって自分の孫となりゃあ指くわえて見てる訳もないだろう」

「……」

 母親の名前を出されて、由乃と奈落は黙り込んだ。奈落にしてみれば、一番迷惑をかけている相手であるし、由乃は少し前まで一緒に暮らしていたのだ。二人ともそれなりに母親については思うところがあった。

「それに、利一は放蕩息子に見えるがああ見えて子煩悩と見た。奈落、お前が心配するこたぁ……」

「だあああああああ! だから! なんで! あいつの名前が出てくるんですか!!」

「えっ。違うの? 一緒に暮らしているんだからてっきりもう……」

「てっきりもう、なんだ!」

「ナンデモナイデス」

 あまりの奈落の剣幕に、由乃は萎縮して片言になってしまった。しかしこの姉の動揺ぶりは、図星だと言っているようなものだと思うのだが。

「まあまあ、落ち着けや。そんな事より由乃、お前言う事があるだろう」

 由乃と奈落が言い争っているうちに、恭助は土間に戻ってまな板の上に残っていた沢庵を自分で切っていた。そしてそれを皿に乗せてまた戻りながら、由乃に声をかけた。

「言う事?」

 沢庵をぽりぽりと齧る恭助に対して、由乃はきょとんとした顔で問い返した。はて、何かまだ言っていないことがあっただろうか。

「玖珂のばあさんに宜しく頼まれただろうが。一番忘れちゃなんねえところだぞ?」

 眉を顰めながらそうぼやく恭助の言葉に、由乃はようやく思い出した。そうだ、桜子と千代の祖母に言付けを頼まれていたでは無いか。

「そうだった! あのね、お姉ちゃん。千代さんのお祖母さんがね、お姉ちゃんによろしくって……」

 そう言いかけると、姉の顔が複雑な表情を見せた。

 無理もない。千代が前の夫と離縁するきっかけになったのは奈落だと聞いている。孫を出戻りにしてしまったその原因であるのに、世話をしているとは言え後ろめたさはあるだろう。相手が今際の際となれば余計にだ。

 しかしふと、由乃はある違和感に気付いた。

「……ちょっと待って。なんでその話をじい様が知ってるの?」

 あの時、あの場に恭助はいなかった。あの病室に居たのは、由乃と桜子と、桜子の祖母だけだった筈である。

 由乃の言葉に、奈落も怪訝そうな顔で恭助のほうを見やった。だが、恭助は何がおかしいものかと言わんばかりの顔で、沢庵を摘みながら言った。

「だって儂、玖珂のばあさんから直接聞いたからな。二代目の妹に宜しく頼んだんだって」

「どういう事? 私が帰った後でじい様は常盤診療所に行ってたの?」

「まぁな。あそこには割と毎日顔を出しとるよ」

「いや、待って下さい。それはおかしい」

 奈落が口を挟んだ。どうにも腑に落ちない、そういう顔だった。

「……何故ですか? じい様が風吹のところに行っているなら、彼女が私のところに……ここ、極楽堂に来て薬を貰っていく理由はなんですか? おかしいでしょう。じい様が毎日顔を出しているなら、薬はじい様が渡せばいい。どうせじい様は私がいない時にも店に来て薬を持っていっているではないですか。……わざわざ私を仲介する理由は、なんですか?」

 まるで溜め込んでいた疑問を打ち明けるように、奈落は捲し立てた。確かに、風吹の行動には謎な部分が多い。由乃ですらそう思うのに、もっと近くで接している姉は自分よりも思うところは多いだろう。

「よもや、家督は継いだからなどとは言わせませんよ。私が二代目をしていようがいまいが、じい様は色んなところで活躍なさっているようですからね。今でも極楽堂と言えば、殆どの人は貴方の事だと思うんですよ! その時の私の気持ちが、貴方にわかりますか!!」

 後半は、姉自身の溜め込んだ不満でもあるのだろう。姉は感情の高ぶりから、髪まで逆立ちかねない勢いだった。

 微かに姉の怒りの匂いを感じて、由乃は少しふらついた。そんな由乃の様子を察したのか、奈落は尚も何か言いたそうだったが、怒りを静めるように大きく息を吐いた。

 恭助はそんな由乃と奈落の様子を黙って見ていたが、摘んでいた沢庵を一旦皿に戻して、懐から煙管を取り出した。同時に燐寸マッチと刻み煙草も取り出し、葉を器用に丸めて火皿に詰めると、燐寸マッチで火をつけて一息吸い込む。

 煙を吐き出すと同時に、火を消した燐寸マッチは土間の方に投げ捨てた。そして恭助は紫煙を漂わせながら、奈落に向き直ると淡々と話し始めた。

「そうだな……奈落。お前はそろそろ知っておいた方がいい。あの死神と呼ばれる医者が、何をしているのか。儂があいつに、何をさせてきたのか。あいつが手を汚してきたからこそ、今の極楽堂があると言っても過言では無い。……ただ、お前にそれを背負える覚悟があるか」

 真っ直ぐに見つめる恭助の目線に、奈落は一瞬狼狽えるように目を泳がせたが、再び恭助に目線を合わせると深く頷いた。

「……いいだろう。あれはな、十年も前の事だった……」

 話し始めた恭助の周りで、煙は徐々に薄くなり、部屋全体へと消えていく。だがその残り香はしばらく鼻腔を擽り、恭助の話と共に、由乃の胸に深く沈んでいった。

シェアして下さると心の励みになります