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極楽堂鉱石薬店奇譚

月長石の秘め事

蛍石の果実 一話

 その女性は、なんの未練も無いかのように自分たちの目の前で髪を切ってみせた。

 真っ先に気付いたのは自分だったろう。何せ極楽堂の爺さんは喧嘩腰で客と応酬していたし、そのせいで他の客はずっと爺さんに気を取られていたからだ。

 しかし、自分はずっと彼女から目が離せなかった。普段とは違う洋装姿に目を惹かれていた事もある。彼女がふらりと店の奥に入って行ったのを、自分は見逃さなかった。そしてはさみを手にした時に、その後何が起こるのか、何故か想像がついた。それなのに、自分の体はすぐに動けなかったのだ。

 彼女の唐突な行動に、罵声を飛ばしていた客たちは興を削がれて退散していった。静かになった店内で、爺さんは小さく溜息をついた。

『悪かったな』

 そう言うと、爺さんは自分が被っていた中折れ帽を彼女に被せた。彼女は変わらず虚な目をしていたが、僅かに目に涙を滲ませているようにも見えた。

『なんだ、奈落。お前そうしてると、昔の儂に似て二枚目じゃねえか。そっちも悪かねえな』

 爺さんはそう言って、彼女を抱きしめた。彼女の肩が震えていることから、泣いているのだろうということがわかる。それなのに自分は、その光景から目が離せなかった。

 無残にも散らばった髪が、痛々しくも何故か愛おしかった。あの時から、俺は。

****************

「お姉ちゃん。お湯、無くなるわよ」

「あ」

 遊びに来ていた由乃に声をかけられて、奈落は我に返った。水晶焜炉の上の薬缶は随分ずいぶん前から湯気を放っていたらしい。店内の湿度は随分ずいぶん高くなり、手元の手紙が心なしかしっとりしている。

「あああ、やってしまった」

 慌てて火を止め、手拭いで薬缶の蓋を掴み覗き込むと、水位が入れた時の半分以下になってしまっていた。水晶焜炉で沸かした水は鉱石薬の薬効を高める効果があるが、沸かし過ぎると濃度が高くなり過ぎて今度は副作用が出やすくなってしまう。水を差すと効果が変質するので使えない。奈落は溜息をついて、薬缶の水を流しに持っていって捨てた。

「お姉ちゃん、やっぱりこの前からおかしいわ。一体どうしたの?」

 そんな妹の問い掛けに、しかし奈落は沈黙するしかなかった。言えない。あどけない妹に千代との関係の事は。

 そもそも、エスの関係を卒業後も続ける事はあまり世間体がよろしくない。多くの女性が結婚相手を自分で決められないこの社会の中で、エスというのは唯一自分の意思で想う相手を決めることが出来る。その代わり、その関係は女学生の間だけというのが暗黙の了解なのだ。卒業後にエスになるなど論外である。しかも相手は子どもも伴侶もいる身だ。あまり、良い道理ではない。

「まるで恋をしているようだわ」

 ガシャーン。

 派手な音を立てて薬缶が手から滑り落ちた。中の湯を捨てた後だったのが不幸中の幸いだった。

 しかし、これは不味い。図星だと言っているようなものだ。

「カフヱ……」

「カフヱ?」

「鉱石茶を提供する純喫茶をここに併設出来ないかと考えていてな。鉱石茶は我々鉱石薬業の間では民間療法的に飲まれているが、一般に馴染みはない。だが、硝子の器などを使えば見目は美しいし、女学生が好むのではないかと考えていたのだ」

 咄嗟とっさにそんな事を口走ったが、あながち嘘ではない。それは以前から考えていたし、実は少しずつその準備も進めていた。

「まぁ。じゃあ水晶焜炉を買ったのもその為だったのね。薬を飲む為だったら、普通の白湯でも充分だもの。正直、水晶焜炉は私には扱い難いと思っていたの」

「薬を飲む為に晶沸水しょうふっすいは必ずしも必要ではないが、鉱石茶を淹れるには必需品だ。薬は石そのものを使うから効果が高いが、鉱石茶は石の内包物を抽出する。その為には水晶焜炉が必要だ」

 まくし立てながら、奈落は安堵した。由乃もやはり鉱石薬業の娘なので、この手の話題には食いついてくれる。

「でも、私たちみたいに石の香りに鼻の利く人間には鉱石茶も美味しいと感じるけれど、一般の方はどうかしら?」

「大陸の方には桂花茶や茉莉花茶など、香りの立つ花茶がある。鉱石に花の組み合わせは美しかろう。味気が無ければ蜜を使えばよい。ただ、菓子の類は心得が無くてな。何か良い案がないものか」

 すると、由乃はにやにやと笑って奈落に指差した。

「じゃあ、視察が必要ね」

「フルウツパーラーか。しかし、果実は高いぞ。この店では取扱えん」

「参考にはなるんじゃない?」

「ふむ」

 そうは言っているが、単純に行きたいだけだというのは由乃の表情から見て取れる。しかし、以前の約束もあるし、連れて行かない訳にもいかないだろう。

「仕方ないな。出資者じいさまに声をかけてみるか」

 今の時間なら恭助は二階の自室にいる。由乃には鼓梅を誘って来てもらい、皆で純喫茶に行くのもたまにはいい。そう思っていた矢先だった。

「ところで、さっきマチさんから受け取ったその手紙は、この前のご婦人からじゃないの? 湯気のせいでだいぶ湿気ってしまっているわ」

 どきり。

 奈落は全く気づいていなかったが、さっきからずっと千代からの手紙を握り締めていたらしい。紫陽花の描かれた可愛らしい封筒。一見して業者からのそれとは違うことがわかる。

 いや、別に動揺することはないのだ。旧友同士手紙をやり取りする事などよくある事だ。

「あ、あぁ、そうだな」

「私、人妻の『妹』も退廃的で素敵だと思うわ。エロティックだと思うの」

 勘のいい妹は姉の心も知らず、飄々(ひょうひょう)とそんな事を言ってのけた。十二歳の少女の口からエロティックなどという言葉を聞いて、奈落はただ固まり、口を金魚のようにぱくぱくさせることしか出来なかった。

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