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極楽堂鉱石薬店奇譚

月長石の秘め事

天河石の約束 一話

「ちょっと、いいか」

 夕餉ゆうげの支度をしていた千代の元に壮吉が声をかけたのは、それからしばらく経ったある日のことだった。普段土間に訪れることのない壮吉の姿に、千代はやや面食らった。

「はい、なんでしょう」

 答えながら、千代は身構えた。こんな風に声をかけられるのは、久しぶりの事だった。そうでなくても、少し前には手を上げられている。

 壮吉の手が、千代の額の傷があった場所に触れた。千代はあからさまにびくりとして、一歩後ろに退いた。

「あっ、すみません」

「いや、こっちこそすまなかった。怪我は良くなったのか」

「お友達から、いいお薬をいただきまして」

 壮吉が謝ったことに、千代は内心ひどく驚いていた。壮吉は、普段そうそう自分の非を認める事をしなかったからだ。

「そうか。いや、常盤先生から聞いてな。あの人は、女性だと」

 夫の話しているのが奈落の事だと、千代は一瞬気付かなかった。夫がそれに気付いていなかった事を、千代は今知ったのだ。

「男性だと思っていたんですか」

「お前が不貞をしていると思っていた。それで、腹が立っていた」

「不貞」

 千代は胸元を握りしめた。見えないその奥に隠れる月長石を、掴むように。

 千代は薄く笑って、壮吉に訊ね返した。

「カフヱ遊びは、不貞にならないのでしょうか?」

「知っていたのか」

「目元に黒子のある女給さんでしょう? 可愛らしい方ですよね」

 そう言って、再び野菜を切り始める。気付いていないと思っている事の方が、千代は驚きだった。もう五年近くも、人目もはばからずに通い詰めていたというのに。

「もう、あそこに行くことはない」

 予想外の壮吉の言葉に、千代は手を止めた。

「お前が子どもを産むまでの間だけと思っていたんだ。腹の子に良くないと聞いたから」

 千代は壮吉のほうを見ずに、彼が話すのをただ聞いていた。壮吉のほうからは千代の顔が見えないので、彼女が今どんな表情をしているのかは見えなかったが、構わず壮吉は続けた。

「百香ももう四歳だ。周りからも次の子をと言われる」

 壮吉の口調はぶっきらぼうだったが、これまでのことを考慮しても、恐らく彼としては最大の優しさだった。まず彼がカフヱ通いを辞めるという事が、千代には信じられなかった。

「なにか、あったんですか?」

「それは、お前には関係ない」

 そう言われるだろうとは思っていたが、思わず千代は壮吉に聞いてしまっていた。これまで別にカフヱ通いをしながらも、壮吉と千代の間に夫婦の営みがなかったわけではない。だから、周囲に子どもを望まれたというだけなら、壮吉にカフヱ通いを辞めるだけの理由はないのだ。

 壮吉は、懐から包みを取り出して千代に手渡した。千代は包丁をまな板の上に置いて手ぬぐいで手を拭き、差し出された包みを受け取った。

「開けていいんですか?」

「好きにしろ」

 千代は少し思案して、包みを開くことにした。中からは、菊の透かし彫りに螺鈿らでんまであしらわれた、鼈甲べっこうかんざしが現れた。

「まあ」

 正直、千代が使うには少々派手めの品であった。螺鈿も千代の好みではない。しかし、この手のものを壮吉から貰ったのは、初めてではないだろうか。

「これは、私に?」

「お前以外に誰がいるんだ。百香がつけるものでもないし、お袋にこんなものは似合わんだろう」

 彼に、贈答品で妻の気を引くという概念があったとは思わなかった。千代は立て続けの想定外の出来事に、眩暈すら感じ始めていた。

「ありがとうございます」

 礼の言葉を告げると、壮吉は何も言わずその場を離れていった。千代はしばらくそのかんざしを眺めていたが、包みなおして懐にしまうと、また包丁を手に取って夕餉ゆうげの支度を続けた。

************

「へぇ、じゃあ千代さんはそうすることにしたんだね」

「そのようだ。まあ、今回のことであそこのせがれも少し丸くなったようでな。儂も多少は便宜べんぎを図ってやることにした」

「すごいねぇ、辺さんに何があったんだろう。ねえ、おいちちゃん」

「さぁ? わたくしは何も存じ上げませんわ」

「よく言うよ。今回の首謀者じゃん」

「まぁ、儂の見込んだ男だからな。このぐらいできて当然だ」

「極楽堂さんが見込んだとか、おっかねぇ。くわばらくわばら」

「どういう意味じゃ」

「なんでもなぁい」

「それより、恭助さん。約束、忘れないで下さいましね」

「おう。そのぐらいお安い御用じゃ」

「えぇ、なになに? 何の話?」

「こっちの話じゃ」

「まだ秘密です」

「ちぇ、つまんないの。じゃあ千代さんのとこはそれで解決したとして、後は旦那だよねぇ」

「まぁ、あいつはどうとでもなるわい」

「ははは、ひでぇな。自分の孫じゃん」

「どうとでもなって貰わんと困るんじゃ。儂らがここまでやってまだうじうじしてるようでは、あの店は継げん」

「まぁ、確かにねえ」

「大丈夫ですよ。彼女、結構強いと思います」

「おっ、意味深。さてはおいちちゃん、旦那と何かあった?」

「ご想像にお任せしますわ」

「おいちちゃん、その笑顔怖い。こんな腹黒に惚れられた旦那も大変だなぁ」

「では、今日はこのぐらいでお開きにしましょうか。何かあったら、恭助さんに連絡します。それでいいですね?」

「うむ、よかろう。二人とも、付き合わせて悪かったの」

「とんでもありません」

「じゃあ僕はもう行くね。おやすみぃ」

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