三話

　風吹が事態を把握できずにおろおろしていると、カウンターで珈琲を淹れる男性と、先程のミドリという女給の会話が耳に入ってきた。

「なんだいミドリちゃん。最近えらく機嫌が悪いじゃないか」

「悪くもなりますよ。あの方、あれきり全然来てくださらないンですもの」

　風吹は思わず、カウンターの方に目をやる。奈落も目は向けなかったが、ミドリの声に意識を傾けていた。

「壮吉さんかい？　確かに最近全然来なくなったなぁ」

「いやだ、違いますよタカさん。壮吉さんなンかとっくに切れました」

　今度は、奈落もぴくりと反応してカウンターに目を向ける。ミドリはこともなげに、頬を膨らませて言葉を続けた。

「今は利一さんって男です。二枚目で優しくて粋で、そりゃもう素敵な方なんですよ。あの人、あまァい声で『僕だけにして？』なんて言うもんだから、アタシ壮吉さんなんか切っちゃったっていうのに、あれきり全然来て下さらないんです」

「んなっ⁉︎」

「えっ、利一って、おいちちゃ……」

　奈落も風吹も、思わず声を上げて利一のほうを見た。給仕を続けていた利一は二人の視線に気付くと、にこりと笑って口元に人差し指を当て「しいっ」という仕草をしてみせた。

　タカさんと呼ばれている店の主人らしき男性は利一の正体をわかっているらしく、ミドリの言葉に明らかに笑いを押し殺していた。

「そうかい、利一ってやつぁひどい奴だね。でも案外、近くにいるのかもしれないよ？」

「だといいのに！　はぁ、早く来てくださらないかしら」

　口ぶりからすると、ミドリは何も知らないらしい。利一がすぐ隣を素通りしても知らん顔だ。その女給がまさにその想い人であるというのに。

　タカさんは笑いをこらえきれないようで、珈琲から顔を背けて肩を揺らし密かに笑っているようだった。利一は相変わらず素知らぬ顔で、給仕を続けていた。

「はぁ、たまげたなぁ」

「策がないわけではないって、策ってこの事か。なんという……」

　奈落は溜息をついて頭を抱えた。さっき渡した饅頭も、可愛いと言われた時の動揺も全て返して欲しいと思った。よりにもよって、こんな方法だったとは。

　そしてふと、あることに気が付いた。

「そういえば風吹、お前はいつ利一のことを知ってたんだ？」

「ん？　ひ・み・つ。まあ、おいちちゃんのことは君より長く知ってるけどね」

「？」

　要領を得ない回答だったが、秘密らしいので奈落はそれ以上聞くのをやめた。というよりも、そこまで二人の関係に興味も無かった。

　利一が珈琲と紅茶のカップを盆に乗せて、奈落たちのテーブルにやってきた。利一は何事もなかったような顔で珈琲を置くと、奈落の視線に気付いてにこりと笑った。

「いやですわ、そんなに見つめられたら照れちゃいます」

「お前、私のことが……なのではなかったのか？」

　奈落はやや苛ついた表情で、声量を落として利一に尋ねた。しかし利一は、こともなげに答えた。

「ええ、奈落さんの事が大好きですよ？　だから彼女にちょっと『お願い』しただけです」

　彼女、の時に利一はちらりとミドリのほうを見た。ミドリは何も気付かずに給仕を続けている。

「『お願い』、ね」

　どんな手を使ったのか、先日の利一を見ているだけに奈落は容易に想像が付いた。しかし、あのミドリという女給となんやかや、と想像すると、奈落の心の中に何かもやもやとしたものが生まれていた。それを払拭するように、奈落は珈琲に口を付けた。

「そういえばおいちちゃん、今度結婚するんだって？」

　そのタカさんの言葉に、奈落は危うく珈琲を吹きそうになった。すんでのところで吹かなかったものの、液体が気道に入って奈落は恐ろしくむせ込んだ。

「あらら、奈落さん大丈夫ですか？」

「なっ、なっ⁉︎」

「寂しくなっちゃうなぁ。おいちちゃんよく働くから辞めて欲しくないんだけど」

「あら、わたくし辞めたりなんかしませんわ。お仕事は続けさせていただくつもりですの。ねぇ？」

　ねぇ、と声をかけられた奈落はしかし、目を白黒させて利一のほうを見るしかなかった。

「あれ？　その人この前の？」

「そう！　この方がわたくしのダーリンなんですぅ」

　そう言って抱きつく利一を反射的に奈落は振りほどこうとしたが、利一が耳元で言った一言で動きを止めた。

「何でもするんでしたよね？」

「おまっ！　それは！」

「恭助さんには許可をとってありますよ。別に本当に結婚するわけじゃありません。ただ、そちらに少し住まわせて頂くことになりましたので、そう言ったほうが手っ取り早いでしょう？」

「聞いてない！」

「そりゃまあ、言ってませんでしたから」

「んなっ‼︎」

「まぁまぁ、合わせて下さいな。こないだの貸しはこれでちゃらにしますから」

　そう言われて、奈落は言葉も出なくなり、抵抗もするにできなくなった。それをいいことに利一は頬に接吻してきたが、奈落は唇を噛みしめてただ耐えていた。

　風吹はそれを見てさもおかしそうにげらげらと笑っていた。

「おっかしい！　あんたら、似合いだよ。そのまま本当に結婚したらいいじゃん」

「他人事だと思って」

「他人事だもぉん」

　おかしい。こいつは先日、友達だと言っていなかったか。友達とはこんなに薄情なものだったろうか。

「しかしそうか、辺さんは振られちゃったのか。流石に可哀相だな。あの人、奥さんに離縁状突きつけられちゃったんでしょ？」

「はっ？」

　風吹が言ったことは、寝耳に水だった。奈落は利一が抱きついている事も忘れて身を乗り出した。そのせいで利一が顎を打ったようだったが、奈落はそれどころではなかった。

「なんだその話は。それこそ聞いていないぞ」

「あれっ？　あちゃあ、まずかったかな。忘れて忘れて」

「そんな訳にいくか！　離縁状って、どうして！」

　息を巻く奈落に、しかし風吹は落ち着き払って角砂糖をひとつ奈落の口の中に突っ込んだ。

「落ち着きなよ。話してあげてもいいけど、僕は僕の知ってる事しか話せない。ちゃんとした事は、本人から聞くんだね」

　口の中で四角い塊が甘く溶けていく。奈落は珈琲で角砂糖を流し込むと、風吹の目を見て深く頷いた。

「頼む」