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極楽堂鉱石薬店奇譚

月長石の秘め事

エピローグ 終章

「あら、随分ずいぶんと可愛らしいお客様で繁盛しているのね」

 ドアベルを鳴らして中に入ってきた彼女は、あの微笑みを湛えて奈落に声をかけた。

 奈落にとっては晴天の霹靂へきれきだった。だが、動揺を悟られないように至極落ち着いた口調を装って、彼女の言葉に応じた。

「ええ、学校帰りのお嬢さん方が立ち寄って下さるんです。こちらのお席、空いていますよ」

 奈落が案内した席に、彼女は腰を下ろした。西洋の女給姿をした千代がすぐに水を持ってきて彼女の前に置き、一礼して戻っていった。

「見覚えのある女給さんね」

「彼女も雲水峰うづみねの出身ですよ。私の後輩です」

 ふうん、と彼女は千代を一瞥いちべつすると、千代が持ってきた水で口を潤した。

 昔と変わらない美しく艶めく長い髪を耳隠しに結い上げ、小ぶりの白いクロッシェを被っている。凛とした声は、それでも少し草臥れたのだろうか、奈落の記憶の中の声とは少し変わっていた。それとも、奈落の記憶が美化されていたのだろうか。胸元が大きく空いた翡翠色のワンピースに、真珠の長いネックレス。モノトーンのハイヒールを履いた彼女は、女学生ばかりの店内でひときわ目立ち注目を浴びていた。

「久しぶりですね、先輩」

 奈落は彼女にそう声をかけた。

************

 奈落は千代に閉店の看板を掛けてもらい、彼女の席の向かい側の椅子に腰をかけた。

「千代さん、今日はもう終わりでいいですよ。後は私がやっておきますから」

「はい」

 千代は申し訳なさそうにそう言うと、カチューシャを外して奥へと入っていった。奈落は千代の背中を見送ると、彼女の方へ向き直った。

「忙しい時間に、ごめんなさいね」

「いえ、彼女も夕飯の準備がありますから、暗くなる前に喫茶は閉めることにしているのです。客層が若いので、あまり遅くまで開いていると親御さんからも苦情が出てしまいますしね」

 彼女は奈落が淹れた鉱石茶を飲んでいた。月長石の細石を底に敷き詰めた工芸茶。喫茶で一番注文の多い品だ。

「月長石、懐かしいわね。この辺りには久し振りに来たわ。乗合バスが通り始めたのね。私たちの頃にはなかったわ」

「そうですね。随分ずいぶん様変わりしたと思います。ずっと住んでいるとわからないものですが」

 そこまで言うと、奈落は次の句を継ぐのが難しくなった。なぜ今更奈落の前に現れたのか。それを、彼女に尋ねてもいいのか。気持ちの整理はついたとはいえ、彼女の存在は奈落の心に激しい波を立てていた。

「貴女は、もう結婚したの?」

 ドクン。

 彼女の言葉は、動揺を押し隠す奈落の胸を切り裂いた。なぜ、貴女がそれを私に問うのか。なぜ、そんな事を私に聞けるのか。いや、そんな言葉を何気なく言えるぐらいに、彼女にとって奈落は取るに足らない存在だったと言う事なのか。

「していません。仕事を、している方が……」

 奈落の声は震え、途中で止まってしまった。そんなつもりはなかったのに、涙が溢れた。

「すみません」

 奈落は一言そう言うと、目元を手で押さえた。

「そうね、ごめんなさい。私が聞けることではなかったわね。私なんかが」

 彼女はそう言うと、また鉱石茶に口を付けた。そのまましばらく彼女は視線を彷徨わせていたが、小さく溜息を吐くと、バックから小さな紙を取り出して奈落の方に差し出した。

 奈落は涙を拭いて、彼女が出した紙を手に取った。それは「虎目屋 月篠」と書かれた千社札だった。

「虎目屋、って、置屋じゃないですか!」

「今はそこで、月篠という名前で芸妓をしているわ」

 芸妓といっても、三味線や踊りだけではない。虎目屋は暗黙の了解で芸妓に売春をさせている置屋だった。

「何故!」

「報い、かしらね。貴女に酷い事をした」

 そう言うと、彼女は笑ってグラスを茶托に戻した。グラスの中にはまだ茶が残っていたが、彼女は縁に付いた紅をハンカチーフですっと拭き取ると、そっと奈落の方にずらした。

「ご馳走様。美味しかったわ」

 そう言って彼女は席を立とうとした。奈落はその彼女の手を、咄嗟とっさに掴んでいた。

「何故ですか。貴女が私を捨ててまで選んだひとは」

「面白くもない、よくある話よ。借金を作って逃げてしまったわ」

 奈落は沈黙した。それ以上聞くことは出来なかった。奈落が手の力を緩めると、彼女はするりと奈落の拘束から逃げて、バックを掴み直した。

「でも私、今の生活も嫌いじゃない。私が選んだ道ですもの、誰かのせいにしようとは思わないわ。ただ、貴女には酷い事をしたとは思っていたから。だから、今の私を見たら、少しは貴女の気も紛れるかしらと思って」

「そんな」

 そう呟いた奈落は、酷く悲壮な顔をしていた。そんな奈落の表情に、彼女はふわりと微笑みかけた。

「そんな顔をしないで。私は好きでやっているのよ。そうだ、この店にその札を貼っておいて頂戴。芸妓仲間にこの店を紹介してあげるわ。とてもいい純喫茶ですもの、みんな気にいるわ」

 それでも何か言いたげな奈落に、彼女は一瞬顔を曇らせて、それでもまた笑顔を戻して言葉を続けた。

「貴女は、強いひとね。こんな私の事を、想ってくれるのね。でも、その想いはもっと大事な、貴女の周りで貴女を支えてくれる人に向けてあげなさい。大丈夫よ。私はこれまでなんとかしてきたし、これからもなんとかなるわ」

 彼女はそう言って、突然奈落に抱き着くと、奈落の帽子を取ってその髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。そしてぱっと離れると、奈落に帽子を手渡してすぐに入口まで歩いていった。

「じゃあね、バイバイ。また、遊びに来るわ」

 そんな彼女の言葉に、奈落は無理やり笑顔を作った。

「今度は、ちゃんと別れの挨拶をしてくれるんですね」

 少し含みを持たせた奈落の言葉に、彼女は自嘲気味の笑顔を見せる。

「是非また、遊びに来て下さい」

 奈落のその言葉を聞くと、彼女は少し安心したような顔をして、小さく手を振って扉の外へ出て行った。ドアベルがカラカラと鳴り、彼女の足音がだんだん小さくなっていく。完全に聞こえなくなったところで、奈落はぽつりと呟いた。

「 」

 しんと静まり返った店内に、奈落の呟きが響いて消えた。まるで、薬棚の石たちがその音を吸い取ってしまったかのように。

 グラスの中の月長石が、きらきらと輝いていた。それはまるで、在りし日の彼女の瞳のようだった。奈落はグラスの中に指を入れて月長石の細石を摘まみ取ると、一粒口の中に含み入れた。奈落の眼から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 さようなら、先輩。貴女のことが、大好きでした。

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