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短編集

末の契り

なんであの女はこんな事をするのか。

なんで自分に得など無いそんな事を。

ああ、なんでこんな体に。

膨れていく腹が私は怖い。

この子を産むのが怖くて仕方ない。

 安曇あづみが目を覚ますと、久万くまはもう家に戻って来ていた。土間のかめから柄杓で水を掬って飲むと、安曇の気配に気付いたのか久万は腕で口を拭って目線を安曇に向けた。

「起きていたのか。具合はいいのか」

 久万は安曇にそう話しかける。しかし安曇は乱れた寝巻きを直しもせず、ただ久万の方を睨み付けるように眺めていた。

「……相変わらず最悪の気分だよ。何を食っても味なんかしやしない、どんどん腹はでかくなる、商売道具の乳だって黒ずんできた」

 ようやく出てきた言葉は、そんな憎まれ口だった。そんな安曇の言葉にも久万は淡々としていたが、安曇にはそれが余計に気に入らないようだった。

「乳は子を産んでしばらく経てば元に戻る。私の村にまだ乳飲み子を抱えている女が何人かいるし、貰い乳できるように話はつけてある。産んでしばらくは乳が張るだろうが、飲ませなければ元に戻るよ。……元のお前の美しい乳に」

「うるせえ! そもそも、あの時堕していればこんな事にはならなかったんだ! それがなんだ、腹の子どもを寄越せとか気の狂った事を言い出しやがって! 産むのはおれなんだよ!!」

 安曇は腹立ち紛れに、ちゃぶ台の上にあった茶碗を久万に投げつけた。茶碗は久万の肩を掠め、土間の床にぶつかって音を立てて割れる。それでも久万は動じずに、なんならなお愛し気に安曇の方を見た。

「私の村の産婆は腕がいいし、それにお前は私が作った飯を文句を言いつつもきちんと食べてくれているじゃないか。あれは精のつくものばかりだ。お前がちゃんと子を産めるようにな。なんなら安産の祈祷をしてもらってきてもいい」

「やかましい!」

 安曇は今にも暴れ出しそうな剣幕だったが、久万は土間から部屋に上がり、安曇の元に近寄ってその体を抱きしめた。

「やめろ、離せ!」

「安曇、ああ、安曇。貴女にだけ辛い思いをさせてすまないね。愛しているよ」

「うるせえ、黙れ!」

「何も心配しなくていいんだよ。腹の子を堕していたって命が危なかった事に違いはない。だったら産んだ方がいい。貴女がいらないというその子は私が貰うからね。腹から子どもがいなくなれば貴女はまた色街に戻る事ができる。その間は私が貴女の変わりに見世に出る。私が見世で稼いだ金は全部貴女のものだ。安心して、安曇」

「お前なんかにおれの名代ができるもんか!」

「……ふふ」

 そう言って久万は微笑むと、なおも暴れようとする安曇から離れた。そして土間に戻り、茶碗の欠片を片付けながら安曇に声をかけた。

「さあ、安曇。寝巻きを着替えてきて。そうしたら食事にしよう。準備しておくよ」

 そう言って久万は満面の笑みを安曇に向けた。毒気を抜かれたのか、はたまたそんな気力も無くなったのか。安曇は顔をしかめつつも、久万に促された通り着替えを始めた。

 色街の遊女であった安曇と、切見世に髪結いとして来ていた久万との奇妙な同居生活が始まって既に三月は経とうとしていた。安曇の妊娠が明らかになったのはその更にひと月前。堕胎専門の中条流を呼んで子を水に流そうという話になっていた矢先、その髪結いの女はとんでもない事を言い出したのだ。

「自分にその腹の子を貰えませんか」

 一時は無碍にされたその申し出も、どんな圧力が回ったのか、いつの間にかその方向で段取りが進んでいた。腹の子を守る為とのことで、安曇は一時的に久万のところで住む事になった。安曇が見世に出れない間、久万が変わりに遊女を務める。

 なぜそんな事ができたのか。久万はその実、忍びの家系であったのだ。だが、久万は子を為せる体ではなかった。だから、跡取りとして安曇の腹の子が欲しいと言い出したのだ。久万の一族の忍びは血筋を重んじるわけではなく、技に長ける者を重んじた。技に長ける久万が育てるなら間違いないと一族は判断したらしい。

 子どもが出来ない体なら見世にとってこれほど都合のよい名代は無い。忍びとして育てられたため、褥の術も心得ていた。

 だが、安曇は久万に対して、不信感を拭えなかった。それは、妊婦特有の苛立ちでもあったのかもしれない。だが、久万が本当に欲しているのは腹の子などでは無い、そう感じていたこともあった。

 そして、それはその通りだった。

 安曇は、する事もなく部屋に横たわっていた。家の事一切は住み込みの下女がやってくれていたし、仕事は全て久万が変わった。本当にやる事がない。

 しかし、ぼんやり横になっていると今度は腹の中で子が動き、なんとも言えない不快感がこみ上げてくる。愛情など一切わかなかった。そもそも、誰の子であるのかもわからない。

 安曇の家は兄弟が多かった。食い扶持を減らすために九つで色街に売られた。それからは遣り手や姉女郎にせっかんを受けて育った。晴れて女郎になれば、借金漬けで毎日客を取らされる。

 だから、こんなに時間を持て余す事など今までなかったのだ。どうしたらいいのかわからない。飯の炊き方も、着物の縫い方も忘れてしまった。ただ、男に媚を売る事だけを覚えさせられて生きてきた。

 安曇の体はそこそこ客がつくほどには良い肉付きをしていた。白く弾力のある肌、やや小ぶりだがしっとりとして形の良い乳。腰部は程よくくびれていたし、白く伸びる足は客が悦んで愛撫したものだ。

 それが今や、くびれなどどこにも無く、腹の皮膚ははちきれそうに伸びてところどころに赤い亀裂が入っている。久万が時々「腹の戻りが良くなる」と言って馬油を塗っていたが、そんなもので元に戻るとは安曇には到底思えなかった。

 夜通し見世で客を取り、帰ってくると寝てる時間以外、久万は甲斐甲斐しく安曇の世話をしていた。「愛している」という割に久万は手を出してくるでも無く、時折ただ愛しげに腹を撫でるぐらいだった。そんな久万の様子は、安曇にとってはただ忌々しいばかりだった。

 久万は、隣の部屋で寝ている。安曇はむくりと起き上がると、襖を開けて隣の部屋に入り久万の布団の横に立った。掛け布団をはぎとり、久万の下腹部の上に跨がる。そして安曇は、ゆっくりと腰を動かした。

「何をしている?」

 目が覚めたのか、久万が声をかけた。

「退屈でねぇ……褥の真似事でもしてみないかい?」

 悩ましげに腰を揺らしながら、安曇は久万を見下ろす。股が擦れて次第に感じ始めているのか、安曇の声はやや上擦っていた。

「やめろ、腹の子に障る」

「お前が欲しいのは……一体どっちだい?」

「何?」

「本当に、腹の子かい? それとも……おれか?」

 そう呟くと、安曇は久万の上に覆い被さり、久万の唇を啄んだ。そのままその唇をべろりと舐める。すると、久万は片手で安曇の後頭部を抱え、上体を起こして安曇の唇に貪りついた。唇を動かすたびに、安曇の腰が揺れる。その振動は、久万の下腹部にも熱を集めつつあった。

 しかしふと、安曇が眉を潜めて動きを止めた。安曇の腹の中で子が動いたのだ。その振動は、密着していた久万にも伝わった。

「ほら、言わんこっちゃない」

 安曇は腹を抱えて、気分が悪そうに俯いた。そんな安曇の背中に久万は手を回し、宥めるように撫でさすった。

「糞……何度経験しても気分が悪い……」

 久万は、吐き捨てるように呟く安曇の頭を撫でる。その目は心なしか哀しそうであったが、それは安曇の預かり知らぬところであった。

「こんな、誰の子かもわからねえような餓鬼、なんで欲しいと思ったんだい」

 久万の腕の中で安曇が呟く。久万はその手を止めてしばらく目線を彷徨わせたが、やがて小さくため息をついてその手を安曇から離した。

「私には、貴女は高嶺の花だったんだ」

 その久万の言葉に、安曇はゆっくりと顔をあげた。

「それでも良かった。時折、髪に触れて言葉を交わせれば、それで充分だと思っていた。だけどあの時、貴女が子どもを堕ろそうとしていた時……私の中で欲が出てしまった」

 そう言うと、久万は着ていた寝巻を解いて前をはだけて見せた。その肌は安曇に劣らずきめが細かく、乳房はたわわに実っている。安曇の名代が出来ているのも納得の体であった。

 しかし、その下の方に目をやると、子どもの陰茎のような小さな突起があるのがわかった。

「えっ?」

 安曇は思わず疑問の声が漏れた。久万の体はどう見ても女の体付きである。しかしそれは、小さいながらも男性のそれであった。

「奥の方に女陰もある。……あまり深くはないけどね。この通りの体で、男としても女としても成りならぬものだからね、私には子どもが作れないんだ」

 そう言うと、久万ははだけた寝巻を着直して、帯を結んだ。茫然としている安曇に、久万は苦笑いをしてみせる。

「だから。貴女の血を引く子どもなら欲しいと思った。貴女の体に負担をかけてしまうことは申し訳ないと思っている。だけど……その腹の中の子どもは、私が喉から手が出るほど欲しいものなんだ」

 久万は、そっと安曇の腹に顔を寄せた。安曇はその久万の行動に戸惑ったが、抵抗するそぶりは見せなかった。

「貴女が手に入らない事はわかっている。どう根回ししても、貴女を身請けするのは難しい」

「よく言うよ。おれをここに閉じ込めておいて」

「できる事なら、貴女をずっとここに閉じ込めておきたかった。貴女と二人でこの子を育てられたら、どんなに仕合わせな事か……」

 安曇は、久万のその言葉に応える事は出来なかった。その代わりに、恐る恐る久万の頭に手を置いた。ぎこちない手つきで久万の頭を撫でる。腹に、生温かい感触が伝わってきた。恐らく久万が泣いているのだろう。

「だから……せめて、貴女がいらないというものを私に譲って欲しいのです」

 安曇の腹の中で、また子どもが蠢いた。不快は不快だ。だが、安曇は初めて腹の子を、邪魔だと感じていなかった。

白波の かかる憂き身と知らでやは

わかにみるめを恋すてふ 渚に迷ふ海女あま小舟

浮きつ沈みつ寄る辺さへ 荒磯集ふ芦田鶴あしたづ

啼きてぞともに 手束弓たづかゆみ

春を心の花とみて 忘れ給ふな かくしつつ

八千代ふるとも君まして

心の末の契り違ふな

「体の具合は、もういいのか」

「お前の方こそ、どうなんだい。夜もろくに寝てないんだろう?」

「生まれる前からずっと昼夜逆転の生活をしていたからね。夜はなんとかなるが、昼が辛い」

「そうかい」

 そう言うと、安曇はぎこちない表情で久万の腕の中の子を見つめた。久万は安曇の目線に気付き、子どもの顔が見えるように抱き方を変えた。

「最後に、抱いていくか?」

 しかし、久万の言葉に安曇は頭を振る。

「やめておくよ」

 それは、情が移ることを避けてのことだったのだろう。しかし久万は気付いていた。産んだその時から、安曇は子に情を持っていた。だが、久万はそれを指摘する事はしなかった。

「……だけど、そうだねぇ。名前ぐらい、つけてやってもいいかい?」

「勿論だよ」

「じゃあ『タエ』と、そう呼んでくれよ」

「タエ」

「おれがあの見世に引き取られた時に捨てた名前だ」

 そう言って、安曇は目を細めた。それは、後悔の表情なのか、母性の現れなのか、久万には読み切ることが出来なかった。ただ、産まれてから一度も赤子に触れようとしなかった安曇が唯一我が子に与えたもの。それが名前であって良かったと、久万は思う。

「ありがとう」

 その言葉が、久万の口をついて出た。しかしそれを聞いて、安曇はにやりと笑う。

「はん。おれが捨てたものを、せいぜい後生大事に育てる事だな」

ーー八千代ふるとも君まして 心の末の契り違ふな

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