襟無しのシャツを襦袢代わりにして、紺色の浴衣に黒い絽の羽織。男と見紛うような短い髪の上には、少し草臥れた黒い中折れ帽が乗っている。しかし、青年と見るには繊細な歩幅のその人影は、右肩に抱えた風呂敷を持つ手を下ろし、その建物の前で足を止めた。
彼女——極楽堂鉱石薬店で店主を勤める極楽院奈落は、偶然目についたその店のことがどうにも気にかかっていた。
こんな場所にこのような店があっただろうか。どうやら喫茶店であるらしく、店の前に大きく掲げられた看板には「珈琲」の文字が入っている。珈琲といえばカフヱの印象が強いが、如何わしいカフヱのように媚びた女給が客引きをするでもない。おそらくは純喫茶であろう。淡々と佇むその店は、しかしその欧風の洋燈が描かれた大きい看板が非常に奈落の目を惹いていた。
丁度今日は早朝から業者のところに行くため店を休み、石を買い付けてきた帰り足だった。もうすぐ昼になる頃だろうか。この後は少し時間があるし、石で嵩張る風呂敷を持って歩いた足は疲労を訴えている。日差しを増した文月の太陽に晒されて、例えばそう、冷たい珈琲でも飲みたい気分だった。
だから、その足がふらふらと「リユミヌー珈琲」と書かれた大きな看板の下をくぐり抜けても、それはやむを得ない事だったのである。
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「いらっしゃいませ!」
店内に入ると、まず張りのある女性の声が奈落の耳に入ってきた。次に、その不思議な雰囲気を醸し出す店内に目を奪われた。煉瓦作りのような壁の薄暗い店内には、いくつもの洋燈が吊り下げられている。確かステンドグラスと言っただろうか、瑠璃や玻璃の様な色合いをしたびいどろ越しの灯りに照らされて、まるで中世の欧羅巴のような佇まいの店内だった。
そんな店内の雰囲気に圧倒されていると、先程の声の主が目の前に現れていた。
「どうぞ、お好きなお席へ」
その女性の出立ちは、異質揃いの奈落の周りでもちょっと見かけないほどハイカラなものだった。白いシャツに黒く足元まで丈のあるスカァト、そして黒い前掛けを身に付けている。奈落よりも僅かに小ぶりな身長で愛らしい顔立ちをしているが、長い髪は後ろできっちりと結い上げられ、しゃきっとした身なりにこちらの背筋も正されるようだった。女給のようではあるが、利一がいたようなカフヱの女給とはかなり装いが違っている。
「あ……はい……」
その女性の横顔は、奈落をエスの姉のように慕う千代にも似た印象があり、思わず奈落は目を泳がせる。奈落は履物で身長を誤魔化しているものの、そこまで背の高い方ではない。その奈落よりも低い目線から上目遣いに語りかけられるのは、どうにも意識してしまい気恥ずかしいものがあった。
女性は一瞬、きょとんとした表情を見せた。しまった、挙動不審だったろうかと内心焦っていると、女性は一際にこやかな目で奈落に声をかけた。
「失礼しました、男物の浴衣を着こなしてらっしゃるので一瞬わかりませんでしたが、女性のかたなのですね! とても素敵です!」
その笑顔に、くらりとした。奈落は心の中で千代に謝罪し、何事も無いような素振りで店の奥へと足を進めた。
店内にはそれなりに客が入っており、右手側はカウンタァの席になっている。至る所に本棚があり、その中の本も奈落の興味を引いた。見た事もない洋書、専門書から漫画まで、その種類は多岐に渡っている。奈落は左手側の壁に面した席に腰を下ろした。木製の卓とゆったりした長椅子。卓の上にも何種類かの本があり、瑠璃色硝子の洋燈が灯っている。本立てには地球儀があしらわれており、店主の感性の良さが伺えた。
立てかけられていた品書きを手に取ると、そこには夥しい数の珈琲の種類が並んでいて面食らった。珈琲だけでこんなに種類を出しているところなど他の純喫茶では見た事がない。三頁ほど珈琲の種類が続き、その次から申し訳程度にそれ以外の飲食物が掲載されていた。
しかし、困った。珈琲にこんなに種類があるとは思わなかった奈落は、どれを頼んだら良いのか検討もつかない。眉根を寄せて品書きとにらめっこしていると、先ほどのハイカラな女給がお冷を持ってきて奈落に声をかけた。
「お好みの珈琲の味はありますか? コクのあるものとか、苦味が強くないものとか。教えてもらえれば、こちらからおすすめをご提案させていただきますよ」
「はあ……ありがとうございます……ん?」
品書きの片隅に、妙な一行が目に入ってきた。思わず奈落はそのままその文字を読み上げていた。
「ダァクネスアンダァグラウンド……?」
突如として、奈落の周囲に妙な緊張感のようなものが走った。心なしか他の客までこちらの様子を伺っているようにも感じる。ハイカラな女給は、口元を歪ませて笑いを噛み潰すような表情をしていた。
「ダークネス、ですか?」
「えっ、なんですかコレ?」
思わず素っ頓狂な声で女給に聞き返していた。珈琲の種類なのかと思ったが、他の珈琲の名前に比べると明らかに異彩を放っている。
「ふふ、少し苦味のあるチョコレート味のアイスクリームを乗せた、コーヒーフロートです。苦いアイスコーヒーにビターなチョコなので、ダークネスという名前になってるんですよ」
どうやら、この店の店主は独特の感性の持ち主であるらしい。しかし、それなりに暑い日差しの中を歩いてきた奈落には、冷たい珈琲にアイスクリンという組み合わせは酷く魅力的に思えた。しかも、アイスクリンは高級品のチョコレェト味だという。これは、試してみない手は無い。
「じゃあ、折角なのでこれを……」
「はい、ダークネスアンダーグラウンドですね! ありがとうございます!」
そう言うと女給はカウンタァの奥に入って、何やら忙しく動いている男性に声をかけた。
「ダークネスアンダーグラウンドです!」
「はい、ダークネスひとつ!」
なんだろう、「ダァクネス」と言うのがなんだったかすぐには思い出せなかったのだが、連呼されるとそれはそれで恥ずかしいものがある。微妙な顔でカウンタァをちらりと伺うと、女給に声をかけられた男性がにこりと笑って会釈してきたので、つられて奈落も頭を下げた。あの男性がこの店の店主だろうか。
ひとつ小さく息を吐き、奈落は改めて店内を見回した。店の奥に目をやって、奈落はどきりとした。そこには得物屋かと思うほど、欧風の長剣や筒銃、日本刀などが無造作に立てかけられていた。もしかしたらやくざものが出入りするような店であったのだろうか、焦ってそっと周囲を見回したが、一見してそのような人物は見当たらないし、誰もその事を気にする素振りもない。
しかし、やはり気になる。目の前の本を適当に選んで眺めつつも、奈落は時々そちらの方向に目線を動かしていた。
「気になりますか?」
突然声をかけられて心臓が跳ね上がった。先程の店主と思しき男性が、背後に立っていた。よく見ると、男性も女給と同じようにハイカラな洋装と前掛けを身に付けている。顔立ちは二枚目の部類であろう。
店主は無言で奈落の目線の先、つまり無造作に置かれた武器の数々の方へ向かう。奈落は息を飲んだ。店長はその中の長剣を手に取って、おもむろに鞘から抜いたからだ。心臓の音が早打つ。そのまま店主はその剣を奈落のほうへ持って来た。
「持ってみます?」
「……は?」
予想外の店主の言葉に、奈落の口から情けない声が漏れた。
「こら! またそうやって驚かせて……! すみません、これは全部模造品なんです」
慌てて間に割って入った女給が、奈落に説明を入れた。恐る恐るその剣先に指を当ててみたが、確かになまくらであるようだった。緊張の糸が切れて、妙な笑いがこみ上げてくる。
「な、成る程。よくできた模造品だ……」
店主は屈託のない笑顔を奈落に向ける。どうにも調子が狂う。店主は尚も、その剣を奈落に渡そうとしていた。折角なので受け取ると、腕にずしりと負担がかかるほどの重みを感じた。
「かなり重いんですね?」
「よくできてますよね! 良ければ他のも手に取って構いませんので!」
そう言うと、店主は店の奥の扉に入っていった。奈落は剣を手にしたまま途方に暮れていると、女給が困ったような笑顔でそれを引き取り、鞘に収めて元の場所に戻した。
今度は気のせいではない。周りの客が笑いを堪えている。奈落は顔から火を吹きそうだった。なんだここは。なんなんだここは。奈落はふてくされた顔でお冷を口の中に流し込んだ。氷で冷やされた水が、幾分奈落の気持ちを落ち着けた。
何気なく、奈落は卓の周りを眺めた。棚の中に何個か小瓶が並んでいる。その小瓶の中には液体が満たされていて乾燥した色の良い花などが入っていたが、よく見てみると奈落にとって慣れ親しんだものも混じっているのが見えた。
「これは……紫水晶?」
思わずそう呟いたその時、先程の女給に声をかけられた。
「お待たせしました。ダークネスアンダーグラウンドです」
「ああ、はい」
「先程は本当にすみません、驚かせてしまって」
「いえ、そんな……あの、これは?」
奈落の目線の先を追った女給は、奈落の言う「これ」が小瓶の事だと気付いたようだった。
「ああ、ハーバリウム」
「はあば……り?」
「ええと、『こちら』ではなんて言えばいいのかな……まあ、観賞用の装飾品、ですかね?」
一瞬、女給はしまった、という表情をしたのだが、奈落の目線はその小瓶の中に向いていたので気付いてはいなかった。女給の不思議な言い回しも、そちらに気を取られて意識に残らなかったようだ。
「成る程、観賞用として瓶の中に石を飾っているのか……いや、『鉱石茶』かと思いまして」
「鉱石茶?」
「ご存知ありませんか。まあ、薬湯の類なのですけれどもね。石藥はわかりますか?」
「ああ、はい。確か、薬として使われている鉱石の事ですよね」
「まあ、そんなところです。実は私、石藥屋でして。我々の間で薬湯として飲まれているものが『鉱石茶』なんですが、随分とそれに似た見た目だなと思ったもので。こんなふうに石を入れて湯を注ぐと、石の『香り』が立つのです。硝子の器に入れると大変に見目が良く……」
自分の得手の話となると饒舌になるのは、奈落の性格なのだろう。はたと我に帰った奈落は、ばつが悪そうに口を閉じた。
「すみません、仕事の手を止めさせてしまいまして」
しかし女給は、奈落の話に目を輝かせているようだった。彼女は奈落の目線の先にあった小瓶をひとつ手に取ると、それを奈落の方に差し出してきた。
「こんな感じの見た目の、お茶があるって事ですか? すごーい、素敵……!」
「うちの薬屋でも最近提供を始めまして。女学生に気に入られればなと思いましてね」
すると、女給は小瓶を棚に戻し、何やら考え始めたようだった。
「これは、使えるかも……ゼリーで鉱石を再現……炭酸水を使えば……あっ、失礼しました! ごゆっくりどうぞ!」
そう言って、女給は足早にカウンタァの奥へ戻っていった。奥で店主と何やら話しているのが見えたが、内容までは聞こえてこない。
先程からあの二人は仲睦まじいように見える。あの距離感から察するに夫婦であろうか、と邪推して、奈落は下世話な推測をした自分を恥じた。目の前のダアクネスなんたらとやらはアイスクリンの部分が溶け始めていて、奈落は慌てて吸い口を刺し冷たい珈琲を喉に流し込んだ。溶けたアイスクリンで甘くなるかと思いきや、珈琲は程よい苦味を保ちつつチョコレートの香りも纏い、豊かな味わいを醸している。匙でアイスクリンの部分を少し掬って口に含むと、市販のそれとは違い確かにほろ苦いチョコレートが口の中を満たした。
中々に興味深い店である。今度は由乃や、あのフラフラした闇医者も連れてこよう。奈落はそう心に決めて、溶けたアイスクリンを匙で珈琲と混ぜ合わせた。
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「……さて、『午前』の仕事はこんなもんかな」
「あ、じゃあ私、玄関の『魔法陣』を解除してきますね」
「しかし、今日は危なかった」
「ハーバリウムに興味を持たれるとは思わなくて……さすが、『あちら』の世界の薬屋さんってところですかね。その代わり、いいヒントを貰っちゃいました」
「こっちは念の為結界張ったよ。これで、『向こうの世界』からは店ごと見えなくなったはず。じゃあ、午後からは『こちら』での通常営業頑張りましょー」
「おー!」
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【カフヱ】
大正時代頃の「カフェ」とは、今の喫茶店とは違い、女給がお客についてお酌をするような所謂キャバクラに近いものでした。本作中でも、カフヱはそのようなお店として描写しています。
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