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極楽堂鉱石薬店奇譚

得物屋純喫茶「リユミヌー珈琲」へようこそ

第弍話 軋む歯車 刹那 夏ノ匂

「……で、その欧羅巴風の珈琲屋とやらは、どこにあるんだい? 旦那」

 腐れ縁の女闇医者は、薄鼠色のシャツの上に羽織った白衣を手ではためかせながら奈落にそう聞いたが、その奈落は眉根を寄せていつもの街並みの中を見回すばかりだった。

「おかしいな。この前来た時はこの辺りだったと記憶しているのだが……」

 日が長くなったとは言え、すっかり太陽は傾いて二人の影が長く伸びている。尋常小學校が夏期の休みに入った子どもたちのはしゃぐ声と、夏を謳歌する蝉の鳴き声が虚しくも奈落と風吹の耳を通り過ぎていた。

「旦那ともあろうものが、まさか狐にでも騙されたんじゃないだろうね?」

 風吹としてはいつもの軽口のつもりだったのだろう。だが、眉間に皺を寄せたままの奈落の瞳は不安気で、そのままその瞳を風吹のほうに向けたので、風吹はまるで不意打ちされたかのように面食らってしまった。

「おいおい、勘弁してくれよ」

「いや、一理あるかもしれんと思ってな。妙に浮世離れした珈琲屋であったし、狐狸の類であったとしても頷ける」

 奈落の言葉に、風吹はやや呆れ顔ではぁと溜息を吐くと、元々緩んでいる首元の黒いタイを更に緩めてぱたぱたと首元を手で煽いだ。

「まあ、いいよ。旦那が面白い店だと言うから期待はしてたけど、そもそも僕珈琲苦手だしさ。蒸し暑いし、旦那んとこで麦湯でも飲ませてよ」

「麦湯なぞお前のところでも作れるだろう」

「旦那のところには大きい冷蔵箱があるだろう? 冷やしたやつが飲みたいんだよ。こないだ隅田のじいさんから貰った西瓜を持っていくからさぁ。折角だし夕涼みと洒落込もうじゃない」

 風吹の言葉に、奈落は申し訳無さそうに苦笑いした。今日ばかりは、風吹の代替案に乗るのが良さそうだ。

「ふむ。では店の冷蔵箱で麦湯を冷やしておくとしよう。すまないな」

「いやぁ、化かされた旦那っていう貴重なものが見られたから、なんてことないよ。じゃあちょっと待ってて。急いで西瓜を持ってくるから」

 そう言って手をひらひらさせると、風吹は駆け足で自分の診療所の方へ戻っていった。

 奈落は、再び辺りを見回した。確か、この辺りだと思ったのだ。しかし、何度見回してもあの店は見当たらなかった。そんな事があるだろうかと奈落は首を傾げたが、とりあえず西瓜を持ってくる悪友の為に麦湯を冷やすべく、彼女も踵を返して自分の店に戻る事にした。

***************

「あれ?」

 風吹は拍子の抜けた声を出した。

奈落と西瓜で夕涼みをした数日後。そこは、あの時奈落に案内されて訪れたあの場所だった。風吹はと言えば、朝早くから土間で喀血したという患者の往診帰りだったので、白衣は少し血と泥で汚れている。できれば早々に帰って着替えたいところではあるのだが、跨っている自動二輪車を止めてしばし呆然としてしまう理由が、風吹にはあった。

「リユミヌー珈琲……」

それは、先日奈落が風吹を連れてこようとしていた珈琲店だった。欧羅巴風の外観に、目を引く大きな洋燈の看板。思わず風吹は周りを見回した。周りの風景は先日と変わらない。しかし、まるで元からその場所にありましたとでもいうように、その店はそこに存在していた。

思わず、風吹はにやりと笑っていた。単に奈落が見つけられなかっただけか、それとも本当に狐か狸のまやかしか。いずれにせよ、こんな面白い状況は他にない。なら、入らないという選択肢がどこにあろう。

 風吹は跨っていた自動二輪車から降りると、店の前に止めた。そして、ちょっと他の店にはないような一枚硝子の扉から中を覗き込む。煉瓦風の内装も奈落が言っていた通りだった。

 ふと、中にいた洋装のハイカラな女給と目が合った。風吹は笑って手を降ってみる。すると、女給は慌てた様子で扉の方へやってきて、鍵を確認しつつ扉を開けた。

「あれ? 開いてますね」

 やや拍子抜けしたような顔で女給はそう言った。

「ああ、いや、紛らわしくてすみませんね。扉があかなかったわけじゃないんです。お店、やってるかなーと思って」

「あぁ、そうでしたか! こちらこそ勘違いしてすみません、開いていますよ」

「そう、良かった!」

 髪をきっちりと結い上げた女給は、思いの他小柄で愛嬌がある。なるほど、旦那が好みそうな顔立ちの女給だ、と風吹は思った。

 女給に案内されて店内へと足を踏み入れると、そこは確かに浮世離れした異世界感のある店内だった。趣のある硝子の洋燈が天井からいくつも吊るされている。古めかしい地球儀や不思議なものが入った硝子瓶など、外つ国の錬金術師でも現れそうなオブジェが散見される店内はしかし、時折陶器の針鼠や猫などを模した小さなマスコットなど、どこか風吹の心の奥を擽るような可愛らしさも秘めていた。

 風吹は店内をぐるりと見回した。席ごとに置いてある洋燈が違うのも洒落ている。どの席に座るか一瞬思案したが、先程の女給がくるくると作業する様がよく見えるカウンタァ前の席に狙いを定めた。少し高い椅子に背伸びして腰掛けると、製本の見事な小説・漫画や専門書が並んでいる。横の壁には、西洋急須の形を模した時計が掛かっていた。

 品書きを手に取って眺めると、奈落が面食らったと言っていた通り珈琲の種類が半端ない。しかし、残念ながら風吹は珈琲があまり得意では無かった。パラパラと品書きを流し読みしたが、パタンとそれを閉じて女給に声をかけた。

「すみませーん、お姉さーん」

「はい」

 女給は作業の手を止めて風吹の前にやってきた。

「あー……申し訳ないんだけど、僕、珈琲が苦手でさ。僕にも飲めそうなものってあるかな?」

 珈琲屋に入っておいて失礼な話ではあるのだが、そもそも入った理由が興味本位だったので止むを得ない。風吹の問いかけに女給は笑顔を崩す事もなく、更に目を細めて言葉を続けた。

「でしたら、まだそちらのメニューには載っていないのですが【軋む歯車 刹那 夏ノ匂】はいかがでしょう?」

「きしむ……え?」

「凍らせた西瓜の果肉とナタデココが入ったソーダのフロートです。乗せているのはレモンピールのシャーベットですね」

「鉈、でこ……?」

「ええと……ナタデココは、ココナッツ水で作った蒟蒻みたいな食感の甘味ですかね。ゼリーよりは固いです」

「なんだかわからないけど、めちゃくちゃに洒落た飲み物だね。それ頼むよ」

「はい、ありがとうございます!」

 はきはきとした返事をして女給は風吹の注文を走り書きすると、主人に言伝して元の作業に戻っていった。

 凍らせた西瓜にポン水、それに檸檬のシャリベツ・アイスとは、なんとも夏向きでハイカラな飲み物だ。この前奈落と共に食べた西瓜も旨かったが、凍らせた西瓜とはどんな食感なのだろうか?

 そんなことを考えながら、ふと店内を見回した時に風吹はビクリとした。この真夏の最中、店の片隅に燃え盛る暖炉が置いてあったのだ。関東大震災の大火事を逃げ延びた風吹は、あまり火が好きではない。思わず反射的に立ち上がろうとしてしまった。

「……あれ?」

「どうかなさいましたか?」

 風吹の突然の行動に、女給が声をかけてきた。しかし、風吹の目は暖炉に釘付けになっていた。よく見ると、暖炉の中で燃え盛っている火は本物ではない。炎に見立てた布のようなものが、風の力で靡いているようだった。炭も燃えているように見えるが、どうやらそれらしきものが内側から光っているだけらしい。

「へえ、これは……よくできてるなぁ……」

「ああ、暖炉ですか?」

 風吹の目線の先を見て察したのだろう、女給が風吹に声をかけた。

「いや、この暑いのになんで火が燃えてるんだろうと思ってね」

「面白いですよね、燃えているように見えるでしょう?」

「うん、ちょっとびっくりしたよ」

 風吹は椅子から降りて、その暖炉の前で座り込んだ。手をかざしても暖かくはない。恐る恐る触れてみたが、暖炉の表面はひんやりとしているだけだった。

「一応暖房器具なんですが、夏の間も雰囲気があるので飾ってるんです」

「へえ、これで暖まれるのかい? いいなぁ、これなら僕でも大丈夫そうだ」

 偽物の火でどうやって暖まるのかとんと検討もつかないが、これなら火の苦手な風吹でも扱えそうである。しかしどうやって、と頭を巡らせたところで、そういえば化かされている可能性も否定できない事を思い出した。狐狸の類であれば、偽物の火などお手の物だろう。風吹はにやりと笑って、それ以上考えるのは野暮だと結論付けた。

 席に戻ろうとして、風吹は下腹部の違和感に気付いた。有り体に言えば、尿意だ。厠の場所を聞こうとしたが、先程の女給は忙しそうである。まあ、大体こういうところの厠は店の奥と相場が決まっている。風吹はなんの気無しにふらふらと店の奥へと向かっていった。果たしてそこには、確かに扉があった。流れるような所作でドアノブに手をかけようとして、ふと目の前の扉に掲げられた看板のようなものが目に入った。

「魔界焙煎室……?」

 風吹が思わずその看板の文字を読み上げると、突然その扉が内側から開いた。

「うわ」

 慌てて仰け反ると、目の前を扉の縁が通り過ぎていった。もう半歩前に出ていれば顔面を強打していただろう。扉の内側から現れた男性は、風吹と目を合わせると慌てた様子で風吹に近付いた。

「あああ、申し訳ありません! そこに人がいるとは思わなくて! 大丈夫でしたか!?」

「う、うん。大丈夫。ちょっとびっくりしたけど。ごめんね、厠かと思ったんだ」

「あぁ……紛らわしくて申し訳ないです。ここは珈琲豆の焙煎室でして。トイレは向こうの、お会計カウンターの手前にあります」

「そっちかぁ」

「ええ、そっちなんですよ」

 白いシャツに女給と似たような前掛をつけた男性は、この店の主人であろうか。自分の知人にも喫茶を経営する女主人(まぁ、奈落の事である)がいるが、比べてみると随分とノリの軽い店主だと風吹は思った。

「お医者様、ですか?」

 男性は風吹の出立ちを見てそう尋ねてきた。そういえば、往診に行って白衣のまま店に入ってしまったのだった。

「まあ、ヤミですけどね」

「白衣に血が……」

「ああ、忘れてた。さっきついちゃったんだ」

 風吹は慌てて白衣を脱ぐと、適当に丸めて小脇に抱えた。男は籠を持ってきて、風吹の方に差し出した。

「どうぞ、こちらに」

「あ、ごめんねぇ。ありがとう」

 風吹が白衣を籠の中に入れると、男は風吹が座っていた席の足元に籠を置いた。風吹が軽く会釈すると、男も少し顎をしゃくれさせるようなコミカルな動きで会釈を返す。風吹はそのまま、会計場の前の方を覗き込む。確かにそこにも、似たような扉があった。今度こそ厠のようだった。

 風吹が厠から戻ると、座っていた席の前には既に何やら赤い飲み物が置かれてあった。

「おお、これが西瓜のやつ」

 そう言って椅子に座ると、女給がカウンタァの奥から風吹に声をかけた。

「そうです、西瓜のやつ。準備させていただいていました! 甘さが足りないようでしたら、シロップ付けておいたので追加してくださいね」

「ふむ」

 規則的に歪んで光を乱反射させる硝子杯の中には、西瓜と思しき赤いものと、何やら白いもの(これがナタなんとかだろうか)が所狭しと詰められていて、その隙間は透明な液体で満たされていた。杯の上には半円形の白いアイスが乗っている。よく見ると、アイスの中には黄色い粒のようなものが入っているようだった。なるほど、柚子は皮の部分を料理や甘味として使用するが、同じように檸檬の皮をシャリベツ・アイスの中に混ぜ込んでいるということか。

 脇に添えられた柄の長いスプウンを手に取り、アイスの上に添えられた葉(香りからして、薄荷と思われる)を一度除け、その白いアイスを掬って口に入れてみる。爽やかな甘さの中に檸檬の酸味と、仄かな苦味を感じた。その甘みが口の中にあるうちに、麦藁ストロヲを挿して中の液体を口に含む。思ったよりも甘くは無い。しかし、西瓜の風味が炭酸水に溶け込んでいて、夏の暑さを癒すのにはちょうど良かった。

「へえぇ、成程ねぇ」

 檸檬のシャリベツ・アイスを食べ進め、いよいよ西瓜を掬い上げる。その赤い欠片を頬張ると、一気に口の中が冷えた。しかし、歯に沁みるような冷たさではない。そっと咀嚼すると、普通の西瓜とは違うしゃりしゃりとした食感を楽しめた。

「うん、美味しい」

 思わず感嘆の声が漏れた。女給がこちらを見て、にこりと笑ったのが見えた。

 さて、非常にハイカラで、しかも美味なものを提供する店だということはわかった。しかし、それでは面白くないのだ。何故この前奈落と来た時にこの店は無かったのか? そして、何故今はこうして普通に営業しているのか? 化かされているならいるでそれで構わないのだが、ただ煙に巻かれるのも癪に触る。

 そう思った風吹は、しかしあるものを見つけてにやりと笑った。昔話などでも定番のやり方だ。そうだ、そうしよう。風吹は心の中でそう決めると、杯の中の仄赤くなった炭酸水を麦藁ストロヲで吸い上げて、ひとつ、喉を鳴らした。

***************

 診療所の出窓から差す西日を眩しいと感じて、風吹はようやく夕方になったのだと気付いた。診療録カルテに書き込む手を一旦止めて、出窓に日除け布でもかけようと立ち上がったが、その出窓に飾ったあるものが風吹の目に入った。

 それは、先日訪れたリユミヌー珈琲で買い求めた小さな猫の置き物だった。ずんぐりとした体型にクリイムソォダを持った灰色の猫は、妙に愛嬌があり可愛らしい。

「ってぇことは、あの店は本当にあったんだなぁ」

 もしあの店が狐狸の類ならば、店から出た途端にこの猫は枯葉なりに戻ってしまうのだろうと踏んだのだが、あれから数日経った今もその愛嬌を変えることなくそこに佇んでいる。

 石粉の粘土で作られたというその猫の作者は「どうぶつ作家 ふう」を名乗っていて、猫などをモチーフにしたマスコットを作っているらしい。マスコット、つまり幸福をもたらすシンボルだ。普段の風吹なら手にしないようなものだが、今の自分の状況の検証のために、あの店のものを何かひとつ持ち帰る必要があると踏んで買い求めたものだ。それに、その何とも言えないとぼけた表情が、なんとなく風吹の心をくすぐった。

「ふう、か……」

 遠い昔に、風吹もそんな風に呼ばれていたような気がする。義父に保護される前、あの震災が起こる前の、遠い遠い昔。しかし、自分をそう呼んでいたのは誰だったろう。当時の友人だったのか、それとも自分を愛していたであろう本当の両親か。もはや記憶は定かではない。自分に友人はいたのか、そもそも両親の顔すら、風吹の脳裏は明確に映し出すことは無かった。

 そっと灰色の猫をなぜる。そして風吹はニヤリと微笑んだ。これがここにあるということは、あの店は本当にあったのだ。しかし、あの店で見たものはおよそ浮世離れしていて、まるで物語に出てくる異世界のようだった。どこから来た、どんな世界の純喫茶なのか、そこまでは風吹は知る由もない。しかし、面白い。面白いということは大事な事だ。

「今度、こいつを旦那に見せてやろう。旦那、どんな顔するかな?」

 そう言って、風吹は日除け布を出窓にかけた。願わくば、またあの異世界純喫茶に遭遇したいものだ。そしてこの暑い季節が過ぎゆく前に、またあの夏の匂いを喉に流し込む。風吹はそんな夢想をして、卓に戻り軋む椅子に再び背中を預けたのだった。

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