書庫

極楽堂鉱石薬店奇譚

月長石の秘め事

琥珀の蜜 一話

 その祖父の言葉は、店の中の空気を凍てつかせるには十分だったらしい。徐々に客同士の間でざわめきが起こった。

『今、なんて?』

『極楽堂さんが隠居?』

『後継ぎが……だって?』

 囁き合う声には不審の色が滲み出ていた。そしてちらちらと、こちらに刺すような目線を向けられる。

『あんた何を考えてるんだ? 女なんかに店を継がせるってのか?』

 大体予想していたのと同じ悪態を耳にすると、苛立ちを通り越して笑い出しそうになってしまう。

 唇を噛み締めて、感情を押し殺した。そう、予想はしていた事だ。自分だって祖父からその話を聞いた時はまさかと思った。しかし、祖父はその意志を変える気は毛頭無いらしい。

 これ以上ないぐらいに居心地が悪い。着慣れない洋装のせいもあるだろう。ひだの多いアール・デコのワンピースはひらひらしていて足元が心許ない。スカートのすそをぎゅっと握りしめ、ただ所在なげにたたずんでいる事しかできなかった。

『悪いけどね、極楽堂ごくらくどうさん。俺はあんたの店だから使ってたんだよ。それが、こんな小娘に店を譲るってんなら、俺ァもうここには来られないね。わかるかい、これは信用の問題だよ。女の出す薬なんて飲めると思ってんのかい?』

『ああ、じゃあ結構だ。あんたは今後うちの店の敷居をまたがんでよろしい。言っておくがうちの孫娘はな、そんじょそこらの薬屋よりも腕は確かだ。後悔するのはどっちか、よおく考えてみるんだな』

 ただ呆然と突っ立っていた自分を庇うかの如く目の前に立った祖父の背中に、目頭が熱くなる。駄目だ。ここで泣いてはいけない。こんな事で涙を見せるのは祖父に申し訳が立たない。

 まくし立てていた男は祖父の言葉に一瞬怯んだようだったが、自分の方をちらりと見て吐き捨てるように呟いた。

『はん……女学校上がりのうちの家内と大差無いような小娘に何ができるって言うんだ。その髪は耳隠しか? 浮ついた結い方しやがって』

 髪。ああ、髪か。

 美容室に連れて行かれて結われた耳隠しは、こてで髪にウェーブをつけ、両側の髪を耳を隠すように流し、後ろでまげを作っている。洋装にも合うモダンな結い方で、今時のモガの中では流行りなのだと聞いた。しかし、女性に慎ましさを求める世間の男性からは評判が悪く、不埒な髪型だの風紀が乱れるだの言われているらしい。

 普段から装いにも髪にも頓着していなかったが、店を継ぐことになった折に、祖父に身なりを小綺麗にするよう言われた。女学校時代はそれなりに美しいと言われた髪だったが、今となってはただわずらわしくて仕方がない。

 そうだ。何故髪など伸ばしている必要があったのか。女の私に、一体なんの意味があると言うのか。私は一体何に操を立てて、後生大事に髪を切らずにいたのか。

 頭に血が上って罵詈雑言ばりぞうごんを応酬する祖父を尻目に、店の奥の棚から裁ちばさみを探し出した。これなら丁度いい。美容室できちんと整えられた髪を片手でぐしゃぐしゃにかき乱し、ひとつかみ無造作に握ると、一切の迷いなくはさみを入れた。

 じゃきん、じゃきんという異音に、祖父と客たちが気付いた頃には、髪の残骸を足元に散らかして見るも無残な頭をした自分がたたずんでいた。

『これなら、文句ありませんよね?』

 目を丸くした祖父の表情が、妙に印象的だったのだけが今でも記憶に残っている。

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