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極楽堂鉱石薬店奇譚

月長石の秘め事

琥珀の蜜 四話

 店に漂う鉱石茶の残り香。記憶に残る紫陽花と、水無月の湿気をまとう黒い髪。奈落は動揺に弾むその心の臓を抑えるように、そっと胸元を握り締めた。

「月長石なんですか。私、水無月の生まれなんです。奈落先輩が首飾りを作ってくださるなら、買いに伺いたいです」

 他意のなさそうな言葉に、奈落は安堵した。気にしているのは自分だけか。いや、それはそうだ。

「光栄ですね。ぜひ御主人と一緒にいらして下さい。外国では、夫が妻に守護石の装飾品を贈る慣習があるそうですよ」

 しかしその言葉に、一瞬千代の目が泳いだように見えた。

「えぇ、そうですね」

 千代の反応は、少し違和感を感じるものだった。ただ、それがなんなのかまではわからなかった。

「千代さん、今の姓はなんと仰るのですか? 以前は玖珂くが、だったと記憶していますが」

ほとりです。辺 千代」

「ほとり」

 奈落は首を傾げた。辺。記憶の片隅にその名前があるような気がする。

「どうかなさいましたか?」

「いえ、何でもないです。よい苗字ですね」

「ありがとうございます」

 気がつくと、外は日が陰り始めていた。空が茜色に染まっているのだろう、窓から覗く向かいの雑貨屋の壁が斜陽に照らされて色付いている。

「ああ、長々と足止めしてしまいました。奥様はこれからお忙しいお時間でしょうに、申し訳ありません。大丈夫でしょうか、御宅はここからお時間かかりますか?」

「あら、ほんに。時間の経つのは早いものですね。大丈夫です。夫は今日は遅くなると言っていましたし、お義母様も今旅行中ですので、今夜は百香と二人で簡単なもので済まそうと話していました。さ、百香」

 千代は、手の中の藍玉を奈落に返すよう百香に促した。百香は名残惜しそうに藍玉を奈落に差し出す。奈落はその藍玉を受け取ると、手元にあった適当な薬袋に入れて百香にまた手渡した。

「百香さんにで悪いですが、再会の記念に差し上げます。用事がなくても構いませんので、是非また遊びにでもいらして下さい。今日は良い日です」

「こんな、高価なものでしょう。それに大事な商いの品ではありませんか」

「沢山仕入れるのです。ひとつぐらいは構いませんよ。ただし、他の方には内緒ですよ?」

 そう言って、奈落は悪戯っぽく笑ってみせた。その笑顔につられたように、千代もふっと笑顔を見せる。

「すみません、ありがとうございます。ほら、百香。お礼を言って頂戴」

「ありがと……」

 百香ははにかみながら、それでも嬉しそうにそう言って、気持ちをはやらせるように薬袋の中を覗き込む。

「まだ駄目よ。お家に帰ってからね。本当にありがとうございます」

「とんでもないです、お気を付けてお帰り下さい」

 席を立って荷物を持ち直した千代の先に立ち、奈落は店の引き戸を開けた。千代は奈落に会釈すると、百香と手を繋いだ。

「そうそう、大事な事を言い忘れていました。今日処方したお薬は取り敢えず咳を楽にしただけですので、明日にでもお医者様のところへ伺って診断を仰いで下さいね」

「わかりました。何から何までありがとうございます」

 そう言うと、千代は百香と帰路についた。

 久しぶりの同年代の女性とのお喋りに、奈落は満足していた。近頃は客も閑古鳥で、会話に飢えていた。こんな他愛ないお喋りに心癒されるのは、やはり自分が女性だからなのだろうとしみじみ思う。

 今度こそ店を閉めようと、奈落は店の暖簾のれんに手をかけた。その時、還暦は超えているであろう白髪の男性が奈落に近付いてきた。

「よお」

 鼠色の着流し、素足に草履を履いた老人の飄々ひょうひょうとした声掛けに、奈落は溜息をついた。彼の後ろには髪を後ろに括り、眼鏡をかけた白衣の医者らしき人物までいる。

 今日はなんと来客の多い日だろう。

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