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極楽堂鉱石薬店奇譚

月長石の秘め事

琥珀の蜜 三話

 こほ、こほという少女の苦しそうな咳で、千代と呼ばれた女性ははたと我に返った。

「ああ、御免なさいね百香ももか。そうだったわね。あの、ええと……さっきから子どもの咳が止まらなくて。お医者様ももう閉まっていたので、何かよいお薬があればと思ったんですけど」

 千代の言葉に、奈落は百香と呼ばれた少女のほうに歩み寄った。百香は少し怯んで千代を見上げたが、千代は安心させるように優しく微笑み、百香の背中を軽く押した。奈落は着物のすそを持って腰を下ろし、百香に目線を合わせる。

「どれ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんは今いくつなのかな?」

「よっつ……」

 消え入りそうな声で百香が答える。奈落は百香の手を取って喉や耳の下などを軽く触診すると、千代に尋ねた。

「娘さんは喘息の気がおありですか?」

「ええ……たまに咳が止まらなくて。今は落ち着いたんですけれど、さっきも咳の発作がありまして」

「そうか、それは大変だったね」

 奈落は百香の頭を撫でると、水晶焜炉の薬缶を手に取り湯呑みに注いだ。次に慣れた手付きで奥の薬棚から分包された薬と、琥珀をひとつ取り出して皿に乗せ、湯呑みと共にテーブルの上に並べた。

「立ち話もなんですから、どうぞ座って下さい。娘さんも少し休ませるといいでしょう。ずっと咳をしていたなら、お疲れの筈です」

「え、でも……お忙しいのでは?」

「今日はもう店を閉めようと思っていたところでした。うたた寝する程退屈していたのですよ。珍しいお客様だ、昔話に花を咲かせたいのです……もし、宜しければですが」

 そう言って奈落は屈託のない笑顔を千代に向けた。千代は安堵したように微笑むと、娘をテーブル前の寝椅子に促した。

「では、失礼します」

 奈落は奥に戻って、茶の準備をしながら千代に話しかけた。

「そのお薬を白湯で飲ませて下さい。取り敢えず咳は落ち着くでしょう。琥珀は即効性はありますがそこまで強い薬ではありません。虫入り琥珀となりますと更に薬効は高いのですが、その分高価ですし子どもさんの体には負担がかかります。それは普通の琥珀ですから大丈夫ですよ」

 千代が薬の包みをそっと開く。中にはうっすら黄色く色付いた粉末が入れてあった。

「いい香り……」

「琥珀は元々樹液ですからね。少し樹木系の香りがするでしょう。ものによっては香として利用される場合もありますよ。それはそれで、また違う薬効があったりします」

「使い方によって薬効が変わるのですか」

「そうですね、抽出される成分が変わりますから」

 千代は薬を娘に手渡す。娘は少し顔をしかめて薬を口に含み、すぐに白湯を流し込んだ。すると、驚いた顔で千代を見上げた。

「これ、あまいよ」

「飲み易くするためもありますが、薬効を浸透させる為に白湯に蜜を混ぜました。咳で荒れた喉を鎮める作用もありますから、すぐに楽になると思います」

 奈落は千代に茶を出した。こちらは普通の煎茶。娘には蜜入りの白湯をもう一杯提供した。

「ありがとうございます……あの、お代は」

「急だったのでしょう? うちは祖父の方針で、緊急の薬の提供は無償なんです」

「でも」

「では、私の一服にお付き合い下さい。それでいいですよ。今後うちを贔屓ひいきの薬屋にしていただければ尚よいですが」

 そう言って笑いながら、奈落は自分の分の茶を持って千代の向かい側に座った。

「お久しぶりですね、千代さん。女学校以来ですか」

奈落は改めて千代の名前を呼んだ。細めた目に懐かしさを湛えて、煎茶を一口すする。口の中に充満していた月長石の残り香を、煎茶の爽やかな香りが洗い流した。ちょうどいい口直しだ。

「奈落先輩……職業婦人になられたとは聞いていましたが、まさか薬屋を営んでおられるとは思いませんでした」

「祖父の店を継いだのですよ。学生の折からそうすると決めていましたので」

 千代とは女学校の課外活動で縁のあった仲だった。奈落の取り巻きの一人であった千代はその「求愛」も積極的で、特に印象に残っていた一人である。

「私もまさかあの千代さんがもうご結婚なさっているとは思いませんでした。覚えてらっしゃいますか? 羽根つきでは貴女に随分ずいぶん墨を塗られました」

奈落は笑いながら昔の思い出を口にする。すると千代は、顔を真っ赤にして両手で覆ってしまった。

「すみません、私ったら」

「いえいえ、あれは私が弱いのが悪いのです。どうにも運動はめっぽう苦手で。いやぁ、こてんぱんにやられて顔が真っ黒になりましたね」

「堪忍して下さい」

 両手の隙間から消え入るような声を漏らす様に、奈落は少々意外そうな顔をした。おや、あのおてんばが人並みに恥じらうようになった、と思ったが、口には出さなかった。千代は既に子どももいる、立派な奥方だ。女学校は良妻賢母の育成を志す施設であるからして、千代はその理念に恥じない卒業生であると言える。商いの道に進んた奈落のような女性の方が、社会的には劣等生だ。

 そうか、私も規範的な女性の道を歩んでいれば、このぐらいの子どもがいるのだな。そう思って、奈落は目を細めながら彼女の娘を見た。百香は奈落の出した蜜入り白湯をもう飲み干していた。お気に召したようだ。

「可愛い娘さんですね。もう千代さんは立派な母親なのですね」

「そうでしょうか」

躊躇ためらいがちにそう漏らした千代の表情に、少し憂いが差した。

「何か気がかりが?」

「まだ、男児をもうけておりませんので」

 そう呟くと、千代は湯呑みを手に取り口につけた。奈落は内心、自分の迂闊うかつを恥じた。その一言に、彼女のそれまでの苦労が滲んで見える。職業婦人やモガが街を闊歩かっぽし、女性の人権向上などと話題にはなれど、世間はまだその波を容易には受け入れず、面白おかしく無責任に煽るばかりだ。奈落とて、店の跡を継いだ時に理解ある顧客は残ってくれたものの、女が跡を継いだ、という事に嫌悪感をもって離れた客もいた。祖父が築いたものを自分が駄目にしたのだ、と思った時の落胆は激しかった。幸い祖父は「そんな客はうちの薬を買わんでいい。他所へ行け」と啖呵たんかを切ってくれたが、それから奈落は男物の着物を身に付けている。一見の客が女店主に警戒しないようにだ。幸い、声もさほど高くはないので、ゆっくりと話せば特に違和感を与えずに接客する事ができる。番頭から出ると身長の低いのが露見ろけんするので、そこで気付かれてしまうのが難点だが。

 百香がそわそわしているのを見て、奈落は我に返った。大人同士の会話は、四つの少女には退屈だったようだ。はて、このぐらいの子どもが好みそうなものはこの店内にあっただろうか。あまり蜜ばかり与えてもよろしくなかろう、しかし、普段は大人を相手にしているので、子どもと親密にする機会は多くない。玩具のひとつでもあればいいのだが。

 そこまで考えて、奈落はひとつ思い至った。幼子とはいえ相手は女性だ。ならば、あれを気に入るかもしれない。

 奈落は席を立って薬棚の方に戻る。下の引き出しには精製前の鉱石が小さな麻袋に入っていた。彩りの良さそうなものを適当に引っ掴むと、奈落は二人の元に戻って百香の前に石を並べた。

「お嬢ちゃん、こういうのは好きかな?」

「わぁ……」

 側面を割られた丸い石の中にみっしりと群を成す紫水晶は、濃い紫と根元の白との対比が美しい。中に金色の筋が多く見える針入り水晶は内包物の量が多く、鉱石茶にすると香りも薬効も高いものだ。蒼い蛋白石には母岩がついたままで、ここから少しずつ削り出して粉にし、血流や胃腸の代謝を促す薬になる。黒い斑点の入った桃色の薔薇輝石、鼈甲飴のような色味をした黄玉……奈落が見せた鉱石の数々は、百香を魅了した。

「うちでは原石を取り寄せて、精製するところからやっているんですよ。薬はもちろんですが、祖父の代ではやっていなかった他の利用法を考えてましてね。例えば……ええと、百香ちゃんだったかな?生まれた月はいつ?」

「三月」

「三月。弥生だね。弥生の守護をすると言われているのは藍玉かな」

 そう言うと、奈落は持ってきた石の中から、水を湛えたように青く澄んだ藍玉を取り出した。不思議そうな顔をする千代に、奈落は微笑みながら説明した。

「まだ因果関係ははっきりしてないのですが、この誕生月に相当する守護石が、その人が持つ体の不安に大体対応できる、いわば常備薬になるという考えがあるんです。ですから、石を装飾具に加工して不安に備える、という触れ込みで首飾りや指輪などを提供しようかと。藍玉は呼吸器の症状を鎮める作用もありますよ」

 そういって、奈落は百香に藍玉を握らせる。小さな手の中に収まった藍玉は、部屋の明かりに照らされて微かに光を帯びた。

「可愛い」

 百香は溜息のようにそう呟き、手にした藍玉をじっと見つめる。それを見て、千代は微かに口元を動かした。

「六月は」

 奈落はその千代の言葉に、ぴくりと反応する。動揺を悟られないよう、勤めて平静を装った。

「水無月の守護石は、なんでしょうか?」

 奈落は、そっと呼吸を整えて、百香の手の中の藍玉から目を動かさずに答えた。

「月長石ですよ」

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