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極楽堂鉱石薬店奇譚

月長石の秘め事

孔雀石の鱗粉 三話

「あれぇ、二代目さん。今日はえらく顔色が悪いじゃないですか」

 馴染みの客にそう声をかけられて、奈落は無意識に猫背になっていた背中を、真っ直ぐに伸ばした。が、その反動で悪心おしんが込み上げ、奈落は咄嗟とっさに歪んだ表情を掌で覆った。

「いや、なんでもないんです。ちょっと飲み過ぎましてね」

「へえ、二代目さんでも飲み過ぎることがあるんですね」

「そりゃありますよ。ええと、マチさんは打身の薬でしたね」

 マチと呼ばれた馴染み客の男は、番頭台に肘を載せて屈託の無い笑顔を見せた。詰襟に帽子、肩からかけた鞄は郵便局の意匠で、男が郵便局員である事を示している。

「そうそう。いやぁ、仕事中に自転車ごと転んじゃいましてね。今も脛が痛むんですよ」

 そうぼやいて脛を撫でる馴染みに、奈落は持ってきた薬袋を差し出した。男はそれを受け取ると、薬袋の中を覗き込む。麻の巾着の中には、黒く光沢のある細かい石が沢山入っていた。

赤鉄鉱せきてっこう細石さざれです。油は」

「ああ、大丈夫。この薬なら極楽堂さんの時にも貰ったことがあるからわかりますよ」

 そう言うと、男は鞄から財布を引っ掴んで金を出した。

「値段は変わってます?」

「いえ、大丈夫ですよ。少し嵩張かさばるかもしれませんが、持ち歩くと転んだ時などにすぐ使えて便利です。私もこれは持ち歩いていましてね」

 そう言うと、奈落は懐からの布袋を取り出して見せた。男に渡したものよりも小ぶりなそれは、同じ様に黒く細かい石が入っていた。

「へえ、そのぐらいの大きさならいいかもですね。嫁さんに頼んで作って貰おうかな」

「一番は、怪我をしないことですけどね」

 奈落がそう茶化すと、男は苦笑いした。

「違いない。じゃあ、仕事に戻りますね。またよろしく」

 そう言うと男は薬と財布を鞄に入れると、ドアベルを鳴らして店の外に出た。止めてあった自転車に跨ると、奈落の方に手を振って去っていった。

 奈落はしばらく手を振り返していたが、思い出した様に悪心が戻ってきて店の寝椅子に座り込んでしまった。

 飲み過ぎた。したたかに飲んでしまった。

 なんとか店は開けたものの、完全に二日酔いだ。あの後物思いに耽ってしまい、家でまた飲み直してしまった。普段十日程かけてちびちびやる酒瓶が、すっかり空になっている。その前にもカフヱでそれなりに飲んでいたので、相当な量だ。奈落は元々あまり酒に強くない。普段はこんなになるほど飲む事は無かったが、考え込んでいるうちに無意識に酒が進んでいたようだ。

 あの後、常盤が辺と呼んでいた男は女給を連れて店の奥に消えて行った。カフヱや茶屋の奥は大概男女の睦事に使われる。という事はつまり、そういう事なのだろう。女給の肩を抱き寄せ、腰に手を回して、接吻を繰り返していた。ああいう場では別に珍しくもない光景だ。奈落とて、男を気にすることがなければ見逃していた。

 だが、男の姓は千代と同じ辺だった。

 千代の夫は昨日「遅くなる」と言っていた。そこまで考えて、いや、馬鹿なと考えを打ち消す。御主人の親族の誰かなのだろう。きっとそうだ。

 だが、そこまで考えても千代の憂いを帯びた笑みが頭から離れない。

 溜息をついて、とにかくしゃんとしなければと思い、酔い止めを調合しようと薬棚に目をやる。

「ええと。解毒作用があるのは蛋白石、翡翠あたりか。吐き気止めは黄玉と……」

 奈落は手を止めた。月長石。今一番見たくない石だ。

 これを使うのは今日はよそう。手に取ったそれ以外の石を精製し、調合を始めた。

「お姉ちゃん」

 その時、ドアベルが少し鳴って、店の入口から少女の声がした。

「あら? 顔色悪いわね、大丈夫?」

 引き戸の隙間から奈落を姉と呼んだ少女が顔を覗かせた。その目は少し色素の薄い茶色で、光の加減では金色に見えない事もない。

由乃よしの。どうした今日は」

鼓梅こうめちゃんと街に便箋を見に行く約束をしていたの。そのついでに」

「よし、いいところに来た。姉はもう動きたくない。酔い止めを調合しろ」

「げ。様子見に来るんじゃ無かった」

 由乃と呼ばれた長髪の少女は、そう言って引き戸の影に隠れる。

「お駄賃はこの前欲しいと言っていた竹久夢二の便箋でどうだ」

「やだ、私が欲しいと言っていたのは夢二じゃなくて高畠華宵よ」

 夢二も華宵もモダンな画風が女学生に人気の画家らしい。だが、流行に無頓着な奈落には、正直違いがよくわからなかった。

「なら華宵でもよい。切手もつけよう。どうだ?」

「しょうがないわねえ」

 由乃は引き戸の影から再び顔を出すと、指を二本伸ばしてみせた。

「ふたつで手を打つわ」

「良かろう」

 由乃は満足気に店内に入ってきた。セーラー服のスカートのひだが細い足元でひるがえる。文具で釣られてくれるとは、安上がりというか大変に年相応の少女らしい妹である。

 由乃は奈落と一回り近く年の離れた妹で、街から離れた実家に暮らしている。今年女学校に入学した。奈落の母校と同じ國立こくりつ雲水峰うづみね高等女学校だが、数年前に制服が変わったらしい。奈落の時代は着物に袴であったが、彼女は二本線の入ったセーラー服だ。お姉ちゃんのお下がりを着たかったのに、と本人はむくれていたが、今風のセーラー服も彼女にはよく似合っている。

 由乃は奈落から石を受け取ると、石を煮沸する準備を始めた。奈落ほど石の扱いに長ける訳ではないが、彼女もまた祖父や奈落の仕事を、見様見真似で覚えたくちである。

「でも珍しいわね、お姉ちゃんが飲み過ぎるなんて。何かあったの?」

「いや。まぁ、あったと言えばあったし、無かったと言えば無いのだが」

「なによ、煮え切らない言い方ね」

「まぁ、大したことでは無いよ」

「飲み過ぎているんだから十分大したことになっているじゃない」

「うぐ」

 どうにも、この妹はこういう時勘が鋭い。いつまでも子どもと思っていたが、流石に女学校に入るような年齢になったという事か。

「なぁ、女学校にはまだ、エスが流行っているのか?」

 話題を変えよう。そう思って奈落は由乃に話しかけた。

「えす? あぁ、お姉様ってやつね。あるわよ。この前鼓梅ちゃんが上級生の方からお声をかけられていたわ」

「ほう。あの娘は大人しいし器量もいいから、有りうるだろうな」

 鼓梅というのは由乃のクラスメイトで、何度か遊びに来ているので奈落も面識があった。身内の贔屓目ひいきめになるが由乃もなかなか器量は良い。だが、きつい印象を与える目元とその色合いが、少し人を遠ざけているようだ。鼓梅は反対におっとりとした可愛らしい娘で、とても人当たりが良い。彼女は男女問わず人を惹きつける魅力があると思った。

「そうねぇ、でも彼女はあの通り可愛らしいし、お裁縫もそつなくこなすし、すぐに縁談が決まって学校から離れるんじゃないかしら。見目が良い娘は卒業まで残る事は少ないって聞いたわ」

「まあ、そうだな」

 むしろ、卒業まで残る生徒は影で卒業面と言われる。縁談の決まらなかった、器量の良くない娘という意味だ。奈落も自身が影でそう言われていた事を知っている。

「お姉ちゃんはどうなの? 話を振ってくるってことは、あったんでしょう? エスが」

 内心、しまった、と思った。墓穴を掘ってしまった。

「私には実際の妹のお前がいたからなぁ。別に学校でまで妹を作ろうとは思わなかったよ」

「ふうん。じゃあ、妹にしたいっていうお姉様は居なかったの?」

「そんな変わり者のお姉様は居なかったな」

「ま、そりゃそうか。はい、出来たよ酔い止め」

 由乃が調合を終えた薬包を奈落に手渡す。なんとか無事に誤魔化せただろうか。奈落は冷や汗を悟られないように薬を口に含み、薬缶から湯呑みに白湯を注いで、それで薬を流し込んだ。鉱石薬の粉薬特有の、少しざらざらした感触が口の中に広がった。

 その時、再び店内にドアベルの音が鳴り響いた。

「はい、いらっしゃ……」

「あの、こんにちは」

 そこに居たのは、奈落が昨夜からずっと想いを馳せていた女性。千代その人がたたずんでいた。

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