奈落は、困ったな、と思った。これはおそらく、見られていたのだろう。千代は今まで見たこともない目で奈落を見ていた。
「千代さん。奇遇ですね」
とりあえず、声をかけてみる。一緒にいた百香が奈落の顔を見て、はにかみながら笑顔を見せた。
「ほら、かあ様。やっぱりせんぱいだ」
「ええ、そうだったわね。こんにちは、奈落先輩」
千代は子どもの手前か、先ほどまでの怒りをおさめて奈落に声をかけた。百香にまで「せんぱい」と呼ばれるのはいささかむず痒いものがあったが、まぁ嫌ではない。それよりも今は、先ほどの状況を言い訳すべきなのかどうか、思案していた。
「買物、ですか?」
見ると、千代は野菜などを入れた籠と、細長い風呂敷包を持っていた。中は酒瓶だろうか、随分重そうにしている。
「ええ。ちょっと、お酒が要りようになってしまって。いつもは酒屋さんに届けて頂くんですけど」
「重いでしょう、持ちますよ」
「でも」
「ちょうど今時間が空いたところです。ご自宅は、ここからそう遠くなかったですよね?」
千代から貰った手紙に書かれていた住所は、この辺りだったと奈落は記憶していた。そこまで酒瓶を持つぐらいなら容易い。
「では、お願いします」
その千代の言葉を聞くと、奈落は千代の手から風呂敷包みを受け取った。この重さと大きさからいって、一升瓶だろうか。近所の店とはいえ、女の腕で持ち歩くには重い代物だ。
奈落は手早く風呂敷を開いて、一升瓶を包み直した。ちらりと覗いた酒の銘柄は、剣菱か。 そのまま奈落は酒の入った風呂敷包みを背中に回し、風呂敷の両端を胸元で結んだ。
「すみません、有り難う御座います」
「法事か何かですか?」
「え?」
「剣菱は、確か弔い酒として飲まれる事が多かったと思いまして」
「そうなんですか。ええ、実は明日がお義父さんの三回忌なんです。いつも夫が飲んでいるほかの酒ならまだあったのですが、どうしても剣菱をと言われまして。そういうことだったのですね」
背中でちゃぷちゃぷと酒が波打つ音を感じながら、奈落は千代の斜め後ろを歩いた。多少、奈落の背中の体温が酒に伝わるかもしれないが、そこまで酒の味には影響するまい。燗で呑んでくれればなお良いが、紫陽花が咲くこの季節では難しいか。
さて、この程度で千代の機嫌は治るかどうか。と思った矢先に、千代が口を開いた。
「先程のお嬢さんは」
ああ。やはり。奈落は片手を額に当てて、空を仰いだ。
「別に、言いたくないんでしたらお聞きしませんが」
「いえ、問題ありませんよ。それにあれは、お嬢さんでもありません」
奈落の言葉に、千代はきょとんとした。横目で見たそんな千代の表情を、可愛らしいと思う。いや、今は弁明が必要な状況なのだが。
「ちょっと、曾孫を急く先代に嵌められましてね。ああ見えて、男なんだそうです」
「そう、なんですか」
千代の顔がみるみるうちに曇っていく。
エス、という関係は、基本的に女学生の間だけのものだ。それはつまり、女学校を卒業したら往々にして嫁入りが決まっている女学生たちの、淡いロマンスである事を意味している。奈落が結婚をすればこの関係が終わってしまうのでは無いかと、暗に千代が危惧しているように感じた。
奈落は、そっと百香の反対隣に立って、千代の手から籠を取り反対の手に持った。そして、空いた千代の片手にそっと自分の手を繋ぐ。
「私は、結婚など考えておりませんよ。跡継ぎに血の繋がりなど無くてもいい。知識と商才がある誰かが店を継げば良いのです。私は、石と向き合っているのが一番楽しい」
「そうですか」
しばらく、そのまま三人で手を繋いで歩いた。少し滑稽な形になってしまったが、やや機嫌を持ち直したような千代の表情に奈落は安堵した。
しかし、酒と籠が重い。千代はこんな荷物を抱えて歩いていたのか、と思うと、些か辺氏に苛立ちを覚える。
「髪」
千代が、ふと思い出したように呟いた。
「奈落先輩は、女学生の時は髪を伸ばしてらっしゃいましたよね。とても豊かな美しい黒髪で、とても羨ましいと思っていたのです。でも、久しぶりにお会いして、男性のように短くなっていたので、一瞬どなたかわかりませんでした」
奈落の胸の奥が、ちり、とざわついた。
髪。それはあの時の苦い記憶を彷彿とさせる。そうだ、あの時、辺氏もあの場にいたのだ。女の証を自分の手で断ち切った、あの時の記憶。
同時に、奈落の脳裏には、風にたなびく絹のような黒髪が映った。花のような薫りがした、ついぞ触れる事が無かった、あの。
「女店主は、あまり評判が良くないのですよ。男のような姿をしていた方が皆さん不安にならないようなので、店を継ぐ時に切ってしまいました」
「ああ、それでなのですね」
嘘ではない。だけど、真実でもない。先程の利一の言葉が心に引っかかっている。
『だから少しでも相手の気を引くために男の様な格好を……』
「昔の、髪の長い奈落先輩もお美しかったですが、私は今の奈落先輩も良いと思います。お顔の整った女形さんのようで、魅力的だと思いますよ」
そう言うと、千代はふふ、と笑ってやや上目遣いに奈落を見た。その目に、先日の色粉を引いた千代の艶っぽい目元を思い出し、その後の自分の痴態も同時に思い出して顔を赤らめた。
「どうも、こちらの方が性に合っているようです。洗髪が楽でいいですね」
多分見られていただろうが、頬の赤さを指摘されるのは恥ずかしいので奈落は千代から顔を背けた。
徐々に日が傾き始めて、空に赤みがさし始めた。これなら、見られても空の赤さのせいだと誤魔化せるだろうか。そういえば、千代と再会したのもこんな日が傾き始めた時間帯だった。
そうだ、あの時私は夢を見ていた。ちょうど、あの時の夢を。
無残に切られた自分の髪。片手に持った裁ち鋏。鼻腔に残る月長石の香り。そして、あの人が選んだのは。
百香が、ぱっと千代の手を離して駆けてゆき、目の前の門の中へ入っていった。どうやら、ここが辺家のようだった。
「百香! もう。奈落先輩、ここで結構です。ありがとうございます」
そう言うと、千代は奈落の方に向き直り、奈落が持っていた荷物を受け取ろうと手を伸ばした。
しかし、奈落は荷物を渡そうとしなかった。不審に思った千代が奈落の顔を覗き込んだその刹那、奈落は差し伸べられたその手を掴んで千代を引き寄せ、その頬に接吻した。
「先ぱ……」
「このまま、貴女を連れ去ってしまえればいいのに」
「!」
千代の耳元で囁いたその言葉は、千代を動揺させる事は出来たようだ。千代の首筋に目をやると、そこには以前奈落のものだった月長石の首飾りが控えめに輝いていた。
「これ、つけてくださっているんですね」
奈落が、指でその鎖をそっと手繰ると、千代の体がぴくりと跳ねた。千代は弾けるように奈落から離れると、不安に揺れる瞳を一瞬奈落に向けて、そのまま視線を落とした。
「あの、私」
千代は視線を彷徨わせながら、胸元を小さな手で握り締める。その戸惑う仕草に、奈落は僅かに目を細めた。
「困らせてしまったならすみません。私はここでお暇します」
奈落は背負っていた酒を下ろし、籠を千代に差し出した。千代は籠と酒を手に取ると、奈落と目線を合わせずに軽く会釈し、駆け足で家の中へと入っていった。
家の窓の一室から、男性がこちらを見ているのが見えた。恐らくは辺氏だろう。奈落は薄く微笑うと、帽子のつばを少し掴んで会釈した。男性は力任せにカーテンを引いて、奈落の視界から消えた。
奈落の胸中に、何かどす黒いもやもやとしたものが渦巻いていた。だが、奈落はそれ以上何をするでもなく、辺氏の見えなくなった窓に背を向けて、帰路についた。
シェアして下さると心の励みになります
Tweet