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極楽堂鉱石薬店奇譚

ウェヌスの涙

真珠クリイムと温熱鉱水‬ 二話

 千代は店の様子を伺いに来ただけのようだった。利一が接客に動いているのを見て安心すると、そのまま「さやま」へと帰って行った。この様子では、しばらくは千代に女給をお願いするのは難しくなるのだろう。しばらくは利一と由乃で回すことになるのかもしれない。

 千代が帰った後、由乃も自室で休んでいた。もうしばらくあの夢は見ていなかったのに、久しぶりに思い出してしまった。

『由乃の莫迦ばか!』

 あの時の染夜の言葉が頭から離れない。更には、あの時の染夜の怒りの「匂い」と、先日の煙管を叩き壊した時の柘榴の表情が由乃の脳裏を霞め、更に気持ちが滅入ることになった。

 そっと女給服の袖をたくし上げて、由乃は自分の腕を覗き込んだ。普段普通にしているときにはわからないが、治りかけの傷跡のような色をした桜の模様が、袖の奥からずっと続いている。

 忘れようもない。由乃の体にこれがある限り、忘れることなどできない。

「……お腹、空いたな」

 顔をその手で覆い、そう呟く事で由乃は気持ちを紛らわせようとした。

 意外に思われるが、ここで食事を担当しているのは姉の奈落だ。あの身なりから生活感が無く、家事などして無さそうに思われることが多いし実際掃除や片付けなどは苦手としているのだが、料理に関しては普通の主婦並みの事ができる。なので、食事の準備は奈落、片付けなどは由乃という分担になっていた。と言っても、姉は店仕舞いしてから準備に取り掛かるので、時間が遅くなるのが目下の難点である。

 ぼんやりとそんな事を考えていると、階段を登る音が聞こえてきた。

「由乃。大丈夫か?」

 襖が開いて姉に声を掛けられた。噂をすればなんとやらである。

「お姉ちゃん……」

「ん?」

「今夜の晩御飯、何?」

 由乃の他愛ない質問に、奈落は呆れ笑いをして溜息をついた。

「食欲があるようなら心配ないな。今夜は千代さんから頂いた『さやま』の惣菜がある。コロッケだそうだ。昨日の残りの煮物もあるから、味噌汁だけ作ればそれで良かろう」

「うっそ、『さやま』でコロッケも作ってるの!? 食べる食べる、やったぁ!」

 姉の料理も嫌いではないのだが、兎に角煮物など昔ながらの料理が多い。コロッケやメンチカツ、カレーなどはデパートメントや喫茶店に入った時の、ちょっとした贅沢メニューだ。千代様々である。

「……現金だな。だが、顔色も戻ったようで良かったよ。そうだ、体調が戻ったなら少し下に来てくれ。業者が来ているから搬入を手伝ってもらえないか?」

「はぁい」

「すまんな、助かる」

 そう言うと奈落は、部屋を出てまた下へと戻って行った。

 

「……」

 ああ、確かに姉は業者と言っていた。そして、確かに業者には間違い無いのだが……

「由乃さん御機嫌よう。ここ数日会わなかったわね」

 ……よりにもよって嘉月製造所だったとは。

「なんでも、裁縫道具を忘れてきたんだって? わざわざ柘榴さんが持って来て下さったぞ」

 そういうと、奈落は柘榴から受け取っていた裁縫道具箱を由乃に渡した。確かに、先日忘れて来てしまった道具箱だ。由乃はあの後校舎裏に行って探したのだが、見つける事が出来なかった。それは柘榴が預かっていたからだったのだろう。

「有難う……御座います」

 お礼を告げると、柘榴はまたあのぎこちない笑顔を見せた。その笑顔を見ると、なんだか由乃は胸が詰まるような感覚を覚えるのだった。

「そういえば、お姉さんから体調がよろしくないと聞いたわ。大丈夫?」

「ええと……」

 返答に迷う。そもそも気持ちが滅入って体調を崩した理由には柘榴の所為もあるのだが、まさか今本人に対してそんな事は言いづらい。

「大丈夫……です」

 由乃は、仕方なく無難な返答をするしかなかった。柘榴は少し心配そうな顔をしたが、それ以上聞いてくる事はなかった。

「それにしても、可愛らしいメイドさんね?」

「メイド?」

「西洋の女給さんをそう呼ぶらしいわ。……いつか、雫先輩から聞いた事があるの」

 まただ。何故か胸が苦しい。由乃は柘榴の事が分からなくなっていた。月宮硝子店が作ったという紅い煙管を叩き壊したかと思えば、雫の話をする時は辛そうな中にも、瞳の奥にとても優しさを湛えている。

 この胸の苦しさは、一体なんなのだろう。

 ふと、姉と目が合った。姉は少し辛そうな表情を見せていたが、何も見なかったかのように由乃から目を背けた。

「……では、今回は煙管が二十四本ですね。以前お話ししていた薬瓶は?」

「ええ、今日は試作品を持ってきました。粉末や細石にする前の石も入れる事があるとのことでしたので、形や材質を変えて強度を上げています。このぐらいの高さなら落としても割れませんよ。こちらは遮光瓶です、光で劣化する石はこちらにどうぞ」

「ほう、良い仕事なさいますね……」

「ありがとうございます。父も喜びます」

 奈落は完全に仕事の顔になって柘榴と話をしていた。天河茶房を回している時とはまた違う顔だ。柘榴も、由乃とひとつぐらいしか違わないのにその姉と対等に仕事の話をしている。

「いやぁ、柘榴さんのような娘さんをお持ちで、お父様もさぞ助かっているでしょう」

「……いえ、私は親不孝者です。あの様な事件を起こしてしまっては、私を嫁に貰って下さる方もいらっしゃらないでしょう。幸い、家業は兄が継ぐ様ですが、私は家の評判に泥を塗ってしまいました」

「それは……」

「……すみません。一応、内密にしておいて下さいましね。あの事については、なかった事に……という事になってますので……」

「ええ……ええ、それは勿論ですが……」

 気まずい沈黙が流れる。奈落も、不用意な事を行ってしまったという顔をしていた。

「あ……えと……。そうだ! お姉ちゃん、芳崎工業って知ってる?」

 由乃はこの気まずさをなんとかしなくてはと思い、昨日柘榴から聞いた話を奈落に振った。いや、兎に角話題はなんでも良かったのだが、取り敢えず流れを変えなければと思ったのだ。

「芳崎工業?」

「そう。加工済みの石を卸してる業者らしいんだけど」

 由乃の話を聞いて、奈落は口元に手を当てて少し考え込んだ。これは、姉が考え事をする時の癖だ。

「……ふむ、聞いた事はある。が、うちでは加工済みの石を買う事はあまりしないからな……」

「あら、そうだったんですか……。てっきり極楽堂さんにも卸してらっしゃるかと思って、由乃さんにお話をしていたんですけども」

「うちにはこの奥に、石を粉砕する機械がありますからね。祖父が買ったものです。そもそも、石薬は他の生薬の類と違い日を置いて効果が薄まるという事は少ないですが、似た石は多いですから判別が難しい。実際原石を入荷しても、別な石が混ざっている事はザラです。だから、店で鉱石体質者が嗅ぎ分けて粉砕するのが結局一番精度が高いし、安上がりなんですよ。その様な業者も、内部に体質者がいるところは信用できるんですが……芳崎工業に体質者がいるという話は聞いた事が無いですね……」

「あら……」

 こういった話になると姉の語りは凄い。由乃はなんとなく右から左に聞き流していたが、取り敢えず話題は変わったのでホッとしていた。

 そこに入口の引き戸が開いて、風吹と文無あやなしという異色の二人連れが入ってきた。

「おばんかたぁ。旦那、いるぅ? もう晩酌始めちゃった?」

「なんだお前は藪から棒に……また晩飯をたかりに来たな?」

「ご名答。今日コロッケでしょ? うちに千代さんが来たから知ってるよぉ」

 なんとまあ。堂々としていていっそ清々しい。その後ろで文無あやなしがくすくすと笑っていた。

「直ぐそこで風吹さんと偶然お会いしまして。お忙しい時間に申し訳ありません」

 一気に人が増えて、極楽堂が賑やかになる。

 数年前、姉が店を継いで直ぐの頃は無かった光景だ。時々この店にも遊びに来ていたが、あの頃の奈落は人の来ない店に一人でぽつんと座り込み、どこか寂しそうにしていた。祖父から姉に代替わりした時、女が主人をする店になど入れないと言って離れてしまった馴染み客も多かったと聞いた。姉が長かった髪を切って、祖父のお下がりの着流しと羽織、中折帽という今の男装姿になったのは、それもきっかけだったと聞いている。

 あの時唐突に、なんの躊躇もなく伸ばしていた髪を切ってしまった奈落に、父と母は驚愕したものだった。姉に婿を取らせて家を継がせるつもりだった父は憤慨し、その時姉を完全に勘当してしまった。それ以来、姉は実家に帰っていない。母は時々文をやり取りしたり、密かに会ったりはしていると聞いている。まぁ、そのせいで由乃にその皺寄せが来ている部分もあるのだが、それも理解している姉はなんだかんだで由乃に過保護だった。

「実は、お誘いに上がったんです。ほら、私たち夫婦が今、天鏡沼の近くの温泉地に宿泊しているとお話ししたでしょう? 次の土日にわざわざ帝都から、夫の担当編集の方がいらっしゃるらしくて。それでその旅館で小宴会を開こうという話になったんですけど、どうせなら皆さんもご一緒にと思いまして」

「うわぁ……いいんですか? 小説家の森先生と画家の文無先生、担当編集というと印宮堂の面虎めんふうさんですよね。そのそうそうたる面子に、一介の薬屋が参加しても良いものでしょうか……」

 文無あやなしの申し出に、奈落は遠慮がちに答えた。確かに、芸術家夫婦と大出版社の編集では、自分たちは場にそぐわない気がする。

「夫も是非にと。どうせなら、由乃さんも風吹さんもいらしてくださいませ。あそこの温泉は美肌効果があるんですよ?」

「びはだ……!」

 いつの世も美容は女性の関心事の中心にあるものである。由乃は期待に満ちた目で姉を見つめた。奈落は苦笑すると、その場にいた面子を指折り数えた。

「ふむ。この人数ではじい様に相談だな」

「……はっ?」

 なんとなく、店を出る機会を逃していた柘榴が意外そうな声を上げた。奈落の指はしっかり柘榴も計上していたのだ。奈落は柘榴に笑いかけた。

「折角ですから、一緒に如何ですか? 嘉月さんにはいつもお世話になっていますし、妹とも仲良くしていただいています。お父様には私のほうからご説明しましょう。……よろしければ、ですが」

「行きましょう、柘榴先輩! 美肌ですよ、美肌!」

 思わず柘榴に掴み掛って力説したが、またあの柘榴の曖昧な笑顔を見て由乃は思わず手を離した。なんだろう。この笑顔を見てしまうと、なんだかやりづらい。

「……ちょっと考えてみます」

「あー……僕は今お金ないからいいや。こないだ人を入れたばっかりなんだ」

 珍しく風吹が口ごもりながらそんなことを言った。とても意外だった。呼ばれなくても顔を出しそうな人物であるのに。

「何を言ってるんだ? どうせじい様の出資になるなら、お前の分ぐらい余裕だろう。そもそも、お前が遠慮するなんてらしくないぞ」

「んー……あー……そう? ……いやでも、僕お酒飲めないし……」

「酒なんか利一も飲めないぞ。今患者がいるのか?」

「今はいないけど……」

「では良かろう。それに折角人を入れたのだろう?たまには泊まり掛けも良いではないか」

「……んー、じゃあ……いいか。行くよ行くよ、折角の誘いだし」

 どうにも、不思議なやり取りである。煮え切らない風吹の態度が、由乃は妙に引っかかった。

 しかし、実のところよく考えると、美肌効果は魅力的でも、あまり大浴場には入りたくない理由が由乃にはあった。しかし、姉と一緒に入るなら幾分抵抗は少ないのだが。それでも、柘榴も一緒となると、その理由を柘榴に知られてしまう。それを思い出して、由乃は少しだけ気分が重くなった。

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