それは、染井吉野が満開に咲く季節だった。薄紅の花が咲き誇り、妖しささえ感じる程の勢いを湛えたその木に、由乃は圧倒されていた。
五才の幼子の目にその桜はあまりにも巨大だった。しかし、所々に瘤があり足掛かりが無いわけでもない。由乃と染夜はよく庭の桜の木に登って遊んでいた。
染夜と由乃の名前はそもそも、その桜の木に由来していた。染夜は長男故に、国の礎となるため国花に因んだ名前をと。由乃は弥生の、桜の花が咲き誇る今のような季節に産まれたので、二人とも「染井吉野」から名前をつけたのだといつか母に聞いたことがある。
染夜は八才で、とても活発な少年だった。率先して桜の木に登り、その後を由乃が追いかけてはいつも母に怒られていた。年の離れた姉の奈落はもう女学校に通っていたので、学校から帰宅すると奈落もその桜の木の周りで、本を読みながら由乃たちの面倒を見ていた。だがその時はまだ奈落は帰宅せず、由乃と染夜だけで遊んでいたのだ。
桜の木の上から眺める庭の景色は子供心にも格別で、由乃はその風景が大好きだった。桜が咲くこの季節は特に、とても華やかで美しく、春とはとても祝福された季節なのだと感じたものだった。
十才にも満たない子供二人が木の上に登ってすることと言ってもたかが知れている。桜の花やその木にしがみつく虫を観察したり、木の窪みに溜まった雨水を手で掬ってみたり、上から家族が庭仕事をしているのを眺めたり。とにかく、他愛ない事が面白くて仕方なかった。
その日は、さらに上へ登ろうという挑戦をしていた。いつも染夜と遊ぶ枝は親から「ここから上には登ってはいけないよ」と言い含められていた。しかしそんな事は気にせず、由乃は更に上へと登ろうとしていた。
『いけないよ、由乃。そこより上に登ってはいけないんだよ。かあ様に叱られてしまうよ』
染夜はそう言って自分を止めた。そう、確かにあの時、染夜は自分を止めていたのだ。
『だいじょうぶよ。ほら、あそこにもっとたくさんさくらがさいているわ。いわなければわからないわ。まだのぼれるわよ』
幼い故に危機感がなかった由乃は、そう言って更に上へと登ろうとしていた。
『いけないよ、いけないよ。やめてよ、由乃。おこられてしまうよ』
『なによ、そめにいのこわがり。こわいんでしょう?』
『怖くないよ!』
『うそだ! そめにいはこわいんだ! だからおこられてしまうなんていうのよ!』
売り言葉に買い言葉で、そう言ってしまった時だった。
『由乃の莫迦!!』
染夜は火がついたように泣き出した。
その瞬間だった。由乃は強烈な「匂い」に襲われて、目の回るような感覚に襲われた。恐らくはそれが初めて良くない感情を匂いで感じ取った「覚醒」だったのだ。染夜の怒りや悔しさ、憤りが由乃の中に匂いを通じて流れ込んでくる。それはあまりにも幼なかった由乃にはとてもではないが耐えられるものではなく、いつのまにか由乃は意識を手放していた。
次に気付いた時には、由乃は布団の中で、部屋の奥で家族が別な布団を囲んでいた。母の啜り泣く声が聞こえる。目が覚めた事に気付いた父は、いきなり由乃の頬を平手打ちした。突然の事で由乃はただ泣くしかなかった。祖父の恭助と父が怒鳴りあう声がしたが、何が何だかわからなかった。
後から聞いてわかった事は、由乃が木の上で意識を失ってしまい、染夜を巻き込んで木の上から落ちてしまったという事だった。由乃は染夜のお陰で大事に至る事はなかったが、由乃の下敷きになった染夜は打ち所が悪かったらしい。しばらくは気丈に家人を呼ぶなどしっかりしていたのだが、突然倒れたまま目を覚ます事はなく帰らぬ人となった。
由乃がなぜ突然気を失ったのか、初めは誰もわからなかった。しかし、症状が鉱石体質者の「覚醒」に似ていた事、由乃が繰り返し話していた「匂い」という情報、それからしばらく祖父と奈落が頭を突き合わせて何か話し合っていたのだが、由乃は世にも珍しい鉱石体質の派生体質なのだろうという結論が出たのだ。
そして由乃が小學校に上がる前に、二度と事故を繰り返さぬようにと、その全身に「晶刺」を入れる事が決まったのだ。
由乃はぼんやりとしながら、学校のセーラー服から西洋の女給服に着替えていた。
最近は千代があまり店に立たないので、学校から早く帰宅した時は由乃が代わりに女給をする事がある。今日は奈落に頼まれていたので店に立つ準備をしているのだが、気持ちが滅入って気乗りしない。
乗合バスの中でうたた寝していた時に見てしまったあの時の夢のせいもある。それに、その夢のせいで先日の柘榴の事も思い出してしまった。あれから二〜三日経っているのだが、未だに柘榴と目を合わせる事ができない。自分から近付いて行ったのに、これはちょっと薄情かもしれない。
しかし、柘榴が叩き壊した煙管との々かが言っていたことが頭を霞める。由乃は自分の目で見たことや聞いたこと以外は信じない事にしている。しかし、見てしまったのだ。
由乃は溜息をついて、やはり今日は休ませてもらおうと思いそのままの姿で寝所を出て、階段を降りた。ちょうど姉の奈落が来店していた女学生に薬を手渡しているところだった。
「……では、こちらが咳と嗄声の薬です。喉に違和感がある時に、こちらの琥珀の粉を耳かきひと匙ぶんほど白湯に溶かしてお飲み下さい。お大事になさって下さいね」
そう言って奈落が微笑むと、女学生はやや頬を赤らめて薬を受け取り、照れ臭そうに一礼していった。全く、この姉はわかっててやってるのだろうか。
「あぁ、着替えたか。今日は随分時間が掛かったな……どうした?」
振り向いて由乃の存在に気付いた奈落が怪訝そうな顔をして、まだ階段に立っている由乃の方を覗き込んだ。自分はよほど酷い顔をしているのだろうか。
「随分顔が青いぞ。……まさか、また何か変な『匂い』でも感じたのか?」
奈落は由乃に近づき、後半をそっと由乃の耳元で囁くように訪ねた。
「ううん、そういうわけではないの……。でもごめん、今日は休ませてもらえないかしら……」
「そうか……ふむ、しかし困ったな。今日は客が割と多くて、私一人では手が回らなくなりつつあるのだが……」
「あら、ではわたくしがお手伝い致しますわ」
聞き慣れない声が背後から聞こえた。階段の上を見上げると、由乃と同じ女給服を着た背の高い女性が降りてくるところだった。
「……えっ? ええ……ええと……?」
彼女は肩ほどまである髪をふわりと揺らして階段を降りながら、由乃の方に笑いかける。見覚えがある気はするのだが、誰だったろう。そもそも千代以外に女給が居ただろうか。由乃は狼狽えて奈落の方に目線を向けると、奈落は非常に嫌そうな顔で彼女を見ていた。
「……ごめん……あの……お姉ちゃん、この方は……?」
「ああ……一応お前も昔会ったことはある筈だ。お前がここにくる前に話はしていただろう? もう一人の同居人だ。あまりここにいる事は多くはないがな」
「……」
由乃は朦朧とする頭で奈落に言われたことを反芻した。確か、祖父が強引に決めた姉の婚約者が、たまにここを寝ぐらにしているという話は聞いていた。
「……あー、思い出した。あの時の……おいちさん」
そういえば昔、奈落の発案でフルーツパーラーに行った時、鼓梅と一緒に祖父の謀をやいのやいのと賑やかした記憶がある。奈落は男性への抵抗心が強く、女性にばかり心を開いていたためか、祖父が「これなら良かろう」と言って連れてきた女装男性だ。確か本名は利一と言って、鼓梅の兄、宝生家の長子だと聞いた。
「あら! 覚えていてくださったんですね! 嬉しい!」
「えええ……あの時は着物だったし、髪型も違うから直ぐには気付きませんでした」
「髢は何種類か持っておりますの。服に合わせて変えておりますわ」
「凄いですね……私より似合ってるかも……」
「有難う御座います!」
そう言って利一は、カウンターでげんなりしている奈落を横目に、走り書きされた注文を確認し始めた。元々女給をやっているだけあり、作業は手早い。
「あっ、そうだ。奈落さん、また蜜の場所をお忘れになってるでしょう?」
「は?」
そう言うと利一は奥の薬棚の引き出しを漁り、蜜の入った瓶を取り出すと奈落の前に置いて、そのままテーブルに注文を取りに行ってしまった。
「……あんなに探しても無かったのに」
呆然としながら呟く奈落を見て、成る程と由乃は思った。祖父の見立ては中々悪くないのかもしれない。口に出すと姉が騒ぎそうなので、言わなかったが。
「……あら、随分今日は賑わってるんですね。なんだか申し訳ないです」
そんな声と共に、店の戸が開けられた。由乃が声のした方を見るよりも早く、奈落の表情がぱっと明るくなった。
「千代さん!」
その女性は、いつも天河茶房の女給をしている千代だった。小動物のような愛くるしい表情に、顎の高さで切り揃えられた短い髪。件の、姉の「妹君」である。
しかし、以前に見かけた時と何か違和感がある。ワンピースの上から女物の外套を羽織っているが、腹部がゆったりとしているような。
「……あっ」
由乃が何かに気付いた時には既に、奈落が千代の元へ駆け寄っていた。彼女が絡むと姉の瞬発力は断然早くなる。
「もう出歩いても大丈夫なのですか? 先日出血したと聞いた時は気が気ではなくて……!」
「ええ、お陰様で。今日は風吹先生が診て下さってその帰りなんですが、経過も良好ですし、悪阻も落ち着いてきたんです」
「だいぶ大きくなってきましたね」
「そうなんです。先輩、触ってみます?」
「えっ……あの……いいんでしょうか……」
そう言って顔を赤らめながら千代の腹部に触れる奈落は、何処か本当に幸せそうな顔をしていた。由乃は姉のこんな表情を見るのは、初めての様な気がする。
というか。これってもしかして。
「えっ……お姉ちゃん……待って、えっと……重婚は出来ないと思うの私」
「……何の話だ?」
奈落は心底「邪魔をするな」という顔をしている。姉は千代が絡むと途端に露骨な人間に変貌する。
「いやでもあの、やっぱり責任は取らなきゃいけないと思うけど、そしたら利一さんはどうなるの?」
「……?」
一瞬、その場にいた全員が呆然とした。沈黙を破ったのは、注文を聞く作業を途中で止めてしまった利一の笑い声だった。
「ふっ……あははは! 由乃さん、頑張っても奈落さんは千代さんを妊娠させることは出来ませんよ……っ、ふふふ……」
「はあ!? 由乃、お前、何を……!?」
「えっ、だってこの状況はそう思うじゃない……! っていうか! 千代さん、ご懐妊って……!?」
てんやわんやしている奈落や由乃や利一を見て、千代はくすくすと笑いながらお腹をさすっていた。
「奈落先輩から聞いてませんでしたか?去年再婚しまして……今は佐山 千代という名になりました」
初耳である。というか、千代を溺愛している奈落がよくそれを許したものだと由乃は思った。奈落のお眼鏡に叶う男性だったということだろうか、それともこれが大人の対応というやつなのか。
「佐山……って、もしやあそこですか?食事処『さやま』の息子さん」
利一が声をかける。仕事をしつつ、こちらの会話にも入ってくるのは流石というべきか。
「ええ、よくご存知で。私、風吹さんのところで週に一回お手伝いさせて貰ってたんですけど、あの方家事らしい家事なさらなくて。私も料理は少々苦手なので、佐山に仕出しをお願いしていたんですけど、その時にご縁があったんです。娘の百香も懐いていますよ」
「差し詰め、風吹が仲を取り持ったってところか……」
由乃は奈落が言葉の末尾で小さく舌打ちしたのを聞き逃さなかった。どうやら、やはり納得はしていないらしい。そんな奈落を、千代は困ったようにくすりと笑って見ていた。
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