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極楽堂鉱石薬店奇譚

ウェヌスの涙

真珠クリイムと温熱鉱水‬ 五話

  何とは無しに目が覚めた由乃は、しばらく湖の水が波打つ音に耳を傾けていた。

 天鏡沼は大きな湖で、まるで山の中に出現した海のようでもある。その大きさ故か、湖畔はまるで波打ち際のような情景を見せるのだった。

 部屋を見回すと、部屋に居るのは由乃一人だけだった。姉の奈落と風吹はまだ宴会に興じているのだろうか。しかし、同室だった柘榴まで部屋から居なくなっていた。

 由乃が身支度をして布団に入ろうとした時には既に、柘榴は布団の中に入って体を休めていた。折角なので少し話をしたいと思っていた由乃は残念に思ったが、旅の疲れから自身もすぐに寝付いてしまっていた。

 静まり返った部屋の中に、波の音が響いている。遠くから聞こえてくる人の声は、酒に興じているどこかの宴会か。由乃は主人のいなくなった隣の布団に目を向けた。何か、胸の奥に詰まるような感覚を由乃は感じた。布団から漂ってくるのは、いつも柘榴が纏っている真珠煙管の残り香だろうか。浴場で、自分の全身に広がる晶刺しょうさしを見て柘榴は何を思っただろう。それとも、何も思わなかったのだろうか。

 そこまで思い至って、由乃はその肩を柘榴に触れられた感触を思い出し、慌ててその手で顔を覆った。姉との縁の蝶。由乃の一番古い晶刺しょうさし。それを見られるのはとても不安だったが、柘榴に触れられたあの感触は……正直、嫌ではなかった。

 自分の頬が赤く染まるのがわかる。恐る恐る、由乃は柘榴の布団に手を伸ばした。そこに寝ていた柘榴の短く切りそろえられた髪、そこから覗く華奢な頸、ともすれば青白くも見えるその肌を夢想した。何か、いけない事をしている気がする。そんな罪悪感が少し脳裏を掠めたが、気付くと由乃は柘榴の布団に上半身を横たえて、その枕に顔を埋め握りしめていた。

「はぁ……」

 自分から漏れる悩ましげな溜息に、由乃は驚きつつもその衝動を抑えられなかった。鼻腔をくすぐる真珠の香りが、まるで自分を酔わせているかのようだった。

 その時、部屋の外で足音がした。由乃はびくりと起き上がり、柘榴の布団から離れる。その足音はすぐに通り過ぎて、部屋から遠ざかっていくのがわかって由乃は安堵したが、同時に自分が今した事への罪悪感が押し寄せてきて恥ずかしくなった。

「……何をしてるんだろう、私」

 そう言ってまた自分の布団に横になろうとしたが、由乃はふと違和感に気付いた。由乃は恐る恐る、柘榴の布団にもう一度触れた。

「あたたかい……」

 それは、布団の主がそこから抜け出してまだ間もない事を物語っていた。

 

 由乃は浴衣に羽織を羽織ると、猪代荘の目の前の湖畔に来ていた。しばらく散策していると、柘榴が流木に腰を据えて、湖を眺めながら真珠煙管をんでいる姿が見えた。

 微かに歌が聞こえてくる。このメロディは流行りの歌だ。初めて聞いた時に印象に残った、柘榴の儚げな透き通る声。しかし芯のあるその美しい声で、想い人に会えない悲痛な歌を歌っている。その歌声に、由乃は胸を締め付けられた。湖を眺める柘榴の目は、愛しいものを見るような優しい目で、まるでそこに立ち入ってはいけないような気がしたのだ。

 姉と文無あやなしが話していたこの湖の龍神伝説を思い出した。湖に投げ込まれて龍になった娘と、後に男や櫛名田比売として語り継がれた娘の恋人。本当に、まるで月宮雫と柘榴のようだ。龍になった娘が雫なら、差し詰め櫛名田比売が柘榴だろうか。

 しかし、由乃は姉が語っていた一節を思い出して、その胸に不穏なものが広がっていた。

『結局その女性は龍神になった娘の後を追って入水自殺した……』

 まさか。由乃は頭の中に響く姉の声を払拭しようとしたが、余計にこびりついて離れなくなった。そもそも、柘榴と雫は一度、共に死のうとしていたのだ。柘榴が今、そう思っていたとしても、何も不思議ではない。

 その時、柘榴が流木から立ち上がった。

「あっ……!」

 思わず上がってしまった声に、両手で口を覆ったが後の祭りだった。由乃の声に振り向いた柘榴が、ばつが悪そうに、曖昧に、あの泣き出しそうな微笑みを由乃に向けた。

 その瞬間、由乃の頬を涙が伝い落ちていた。既にこの世にはいない雫に、酷く嫉妬している自分に気付いた。ああ、こんなに醜い感情があるだろうか。この二人の間になんて絶対に入り込めない。既に死んでしまっているのに……いや、だからこそ、もう柘榴の心から雫がいなくなる事は絶対に無いのだと、その瞬間にわかってしまった。

 報われる事はないとわかっていたはずなのに、気付いてしまった。実りようもない想いに。

「由乃、さん? どうしたの……」

 突然泣き出した由乃を不審に思った柘榴が歩み寄ってきた。由乃は兎に角涙を止めようとしたが、後から後から溢れてきて止まらない。

「ごめんなさい……あの……部屋に居なかったから……違うんです、これは……」

 柄にもなくしどろもどろになってしまい、どうしたらいいのかわからない。由乃はただ、おろおろとするばかりだった。

 その時、由乃に歩み寄った柘榴が由乃の手を引いて、その胸に抱き寄せた。さっきよりも濃厚な真珠煙管の香りに包まれて、由乃は何も考えられなくなった。頭を撫でられて、背中をとんとんとあやすように叩かれる。酷い安心感に包まれて、由乃は更に涙が溢れ出てしまった。

「……心配してくれたのね……ありがとう」

 違う、そうじゃない。由乃は自分が今、もっと醜い感情に苛まれているのに、そんな風に優しい解釈をしてくれた柘榴に申し訳ない気持ちで一杯だった。

「……癲狂院に入っていたと言ったでしょう? それがこの近くでね……何時も外から聞こえてくるこの波の音を聞いていたわ」

 抱きしめていた手を緩めて、由乃を見つめながら柘榴はそんな事を話し始めた。

「……でも、波の音を聞くたび、あの時のことを思い出したの。目が覚めた時に、目の前にあった雫先輩の亡骸が目に焼き付いて離れない。……酷い『妹』よね、私。あの青白くなった雫先輩の顔を見て、美しいと思ってしまったのよ……!」

 だんだん、柘榴の表情が歪んでいく。その顔は今にも泣きそうなのに、まるでその目は涙が枯れてしまったように、暗い苦しみを滲ませていた。

 ただ涙を流しながら、今度は由乃がおぼつかない手付きで柘榴を抱き寄せた。苦しい。辛い。だけどそんな自分よりももっと苦しい柘榴の感情の匂いが由乃の中に流れ込んでくる。ただひとときでも彼女を慰められるのならと、由乃は柘榴を抱きしめる腕に力を込めた。

「……貴女は、間違っていません」

 由乃が声をかけようとしたその時、少し遠くから男の声がした。とっさに柘榴から離れて声のした方に向き直る。そこには、何度か盗み見た書生姿の青年、芳崎和葉が佇んでいた。

「……和葉さん」

「亡骸とはいえ、愛する人を見て美しいと思うことの、何が罪でしょうか。……間違っていませんよ。そう思いませんか、お嬢さん」

「え……」

 突然話を振られて、由乃は慌てて濡れた頬を拭う。

 改めてきちんと対峙した和葉は、比較的整った顔の青年だった。すっと通った鼻に、薄い唇。その目元はあどけなさの残る面持ちをしている。だが、なんだろう……由乃はその目に、心許ない何かを感じた。

「何故、貴方がここに?」

 先ほどの辛そうな顔は噯にも出さず、柘榴が和葉に応える。だが、由乃は彼女のざわつく不安な心を嗅ぎ取っていた。

「先生が……こちらに来ていると伺ったのでご挨拶にと思ったのですが、なかなか捕まらなくて……あてもなく歩いていたところを、偶然お見かけしてしまいました。……なんだか、聞き耳を立ててしまったようで申し訳ありません」

「先生?」

「次の春からお世話になる先生です……帝都の大学に通いながら、書生をさせていただくことになりまして」

 そう言って、和葉は穏やかに微笑んだ。その笑顔に由乃がなんとなく警戒を緩めた、その時だった。

「……もしかして、私の申し出を受けていただけないのは……そういうことでしょうか?」

 一瞬、和葉が何を言ったのかわからなかった。しかし、柘榴から凄まじい怒りの感情が流れ込んで来て、由乃は心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。

「……どういうことですか」

「彼女が、貴女の新しい『エス』なのでは? とても、親密そうにしてらしたので……」

「……」

 違う。由乃はそう言おうとして、声が出なかった。そう思われたことを一瞬嬉しいと思ってしまった自分がいた。しかし、そんな気持ちは絶え間なく流れ込んでくる柘榴の感情に強烈に否定された。酷い怒り。柘榴にとっては侮辱されたも同じ事なのだろう。

「だとすれば……貴女は私と同じです。私たちは、雫さんの死を……」

「彼女は、良き友人です」

「……」

 由乃は、目眩がしてきた。絶え間なく流れ込んでくる怒りの感情に、一番古い記憶が呼び起こされる。自分を叱る染夜の怒り。骨折の痛みの中で自分を打った父の怒り。染夜の死。渦巻く哀しみ。目の前の柘榴の横顔が染夜のものに見えた。その怒りはまるで、自分を死に追いやった由乃を責めているように感じた。

 世界が回る。由乃は立っていられなくなって、足元から湖畔の砂浜に崩れ落ちた。遠のいていく意識の中で、柘榴の声と、遠くから姉の叫び声が聞こえた気がした。

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