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極楽堂鉱石薬店奇譚

ウェヌスの涙

月の雫と砂糖菓子 一話

「ですから……由乃さん? 聞いてます?」

 鼓梅の呼びかけで由乃は我に返った。

 晶刺を入れるために女学校を一日休んだので、休んでいた間の授業範囲を鼓梅に教えて貰っていたのを由乃は思い出した。

「ああ……ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたのもので……」

 溜息をつく鼓梅に申し訳無いとは思いつつ、しかし昨日の恭助の話が頭から離れない。あの話が本当だとすれば、風吹は姉や祖父の為にあんな事を……

「……今日はずっと上の空ですわ。どうかしましたの?」

「うん……ちょっとね」

 鼓梅が心配してくれているのはわかるのだが、こればかりは話す訳にもいかなかった。女学生同士の話題としては、とてもじゃないが重過ぎる。

「無駄よ、鼓梅ちゃん。由乃ちゃんがこうなってる時は話してくれた試しが無いわ」

 鉛筆をふらふらと揺らしながら、の々かが割って入る。の々かは別に休んだ訳でも無いし教えてくれる訳でも無いが、由乃と鼓梅が集まればいつの間にかそこに寄ってくるのだった。

「どうせ鼓梅ちゃんが話してる事だって頭に入って無いんでしょう? それなら、この前の温泉に行った時の事を教えてよ!」

「ええっ?」

「知ってるわよ。家族ぐるみとは言え、柘榴先輩と温泉に行ったんでしょう? 猪代荘いのしろそうの近くで由乃ちゃんと柘榴先輩を見たって人が居るのよ! ちょっとした噂になってるんだから!」

 目をきらきらさせて由乃に迫るの々かに怯みつつも、由乃は内心話題が変わった事に安堵した。しかし、こっちはこっちで、少々厄介そうではあるのだが。

「……そうですわね。どうせ今は何を言っても頭に入らないでしょうし、後からにしましょう。それに、その話は私も興味がありますわ」

 普段は大人しそうな鼓梅だが、意外とこういう噂話には目が無い。二人から期待の眼差しを向けられて、由乃は何から話したらいいものか、思案していた。

「え……ええと……前に小説家の森先生と画家の文無あやなしさん夫婦がお姉ちゃんの知り合いだった話はしたわよね?」

「ええ、とても羨ましいお話をお伺いしましたわ。森先生の小説のシリイズは、私全て揃えておりますのよ」

 そう、その話をした時は、普段感情を表に出さない鼓梅が大層悔しがったのだ。由乃は森夫婦が猪代荘いのしろそうに居るうちに、鼓梅の為にサインを貰っておかねばと心に決めた。

「それで、お二人の静養先に出版社の方がいらっしゃる事になって、小宴会を催すというから、お姉ちゃんと私も誘われたの。その時、柘榴先輩もいたから……」

「柘榴先輩が?」

「柘榴先輩のお家が嘉月製造所というところで、うちの薬屋に道具を卸していたのよ。それで、偶然」

「それで、一緒に行く事になったの?」

「ええ……」

 こうして話してみると、凄い経緯ではある。何せ今女学校で、悪い噂でとはいえ話題の的である柘榴と、今人気の小説家と画家の夫婦。その面子で温泉旅行である。

 由乃はあの時の温泉旅行の事を思い返す。すると、頭の中に浮かぶのは柘榴の事ばかりだった。浴場で柘榴に肩の晶刺の蝶に触れられた事。細くしなやかな柘榴の肢体。柘榴から漂う真珠煙管の匂い。由乃は、途端に自分の顔が熱くなるのがわかった。

「ちょっと、どうしたの由乃ちゃん」

「え、えっと、別に……」

 由乃は両手で頬を挟み込んで顔を冷やそうとしたが、なかなか熱は下がりそうにない。の々かに不審がられているのがわかったが、流石にそれを説明するわけにもいかないと思った。柘榴の布団に顔を埋めていたなど、あまりにも恥ずかしくて話せる事では無い。

「あ、あの、ね。柘榴先輩は、とてもお声が綺麗で……お歌が、とても澄んだ美しいものだったわ」

「歌が?」

「ええ、夜に湖畔をお散歩していた時に偶然聞いたの。柘榴先輩はちょっと近寄りがたい雰囲気があるけれども、あの涼やかなお顔立ちとは裏腹の可愛らしいお声をしていて……」

「恋ですわね」

 何かを誤魔化すようにまくし立てて話す由乃の言葉を遮り、鼓梅がそんな事を唐突に呟いた。由乃は思わず言葉が止まり、目を見開いて鼓梅を見返す。頬はさっきよりも熱くなっていた。

「ちょっと、鼓梅ちゃん…!」

「いやぁ、今のは私も思ったわ。完全に恋してるじゃない」

「の々かちゃんまで……!」

 二人から同じ事を言われる程、自分の態度はあからさまだったのだろうか。由乃は慌てたが、二人はただにやにやするばかりで「あの由乃ちゃんがねえ」とか勝手な事を言っている。

「ち、違うわ……! ただ私は、柘榴先輩が死んだ兄に似てると思って……ただそれだけで……!」

「あら、案外ロマンスってそういうところから始まるものよ?」

「んもお!!」

「あなた達、ロマンスに関する議論が白熱しているのは結構だけれども、ここが何処かお分かりかしら?」

 不意に後ろから声が聞こえてきて、慌てて三人は口を閉ざして振り返った。そこには、昨日常盤診療所で顔を合わせた桜子が微笑みながら佇んでいた。

「図書室……です……」

「分かっているのでしたら、もう少しお声を小さくして頂ける? 私はとても楽しませて頂いたけれども、他の生徒さん方もいらっしゃるのよ?」

 隣から、の々かの小さい悲鳴が聞こえてきた気がした。周囲を見回すと、何名かの生徒がこちらの方を見ながらくすくすと笑っている。由乃は穴があったら入りたかった。

「すみません……桜子先輩……」

「ごめんなさいね。私は図書委員でもあるので、一応お声をかけさせて頂いたの。お邪魔して悪かったわね」

「そんな、とんでも無いです。却ってこちらこそ申し訳ありません」

 由乃は慌てて椅子から立ち上がり桜子に一礼すると、桜子は困ったように微笑んで椅子に戻るよう片手で促した。

「昨日は私の方がご迷惑をかけてしまったからお互い様よ。じゃあね、ごきげんよう」

 桜子はそう言って、由乃たちに小さく手を振ると図書室の受付の方に戻っていった。桜子の後ろ姿をぼんやり眺めていると、何やら小脇をの々かに突かれているのがわかった。

「いたっ……ちょっと、なんなのの々かちゃん」

「なんなの、じゃ無いわよ……! 聞きたいのはこっちの方よ!」

 の々かは声量を落としつつも、凄い目で由乃の方を睨んでくる。はて、何かここまでおかしな事を自分はしただろうか。

「なんで由乃ちゃんと桜子先輩が親しそうにお話なさってるの!? 昨日って何!? 由乃ちゃん昨日はお休みしていたはずでしょう!?」

「の々かさん、落ち着いてくださいませ。少しずつ声が大きくなってますわよ」

 鼓梅に窘められて、の々かはようやく一息ついたようだったが、まだ腑に落ちてはいない様子で由乃の方を睨んでいる。一体何なのだろう。

「いや……あの、昨日用事で出かけた帰りに、偶然桜子先輩にお会いしたのよ。それで……」

「……由乃ちゃんは、柘榴先輩の事が好きなんでしょう? 二人同時なんて絶対駄目よ! そんなのずるいわ!」

「……は?」

 何だか話がおかしい。何故そこで柘榴の事が出てくるのだろう。由乃がぽかんとしていると、鼓梅がぽつりと呟いた。

「の々かさん……悋気は見苦しいですわよ」

「……悋気?」

 の々かの方を見ると、今度はの々かが顔を真っ赤にしている。あ、これは、つまり……

「の々かちゃん……桜子先輩の事が好きなの?」

 思わず頭に浮かんだ事をそのまま口走ってしまったが、由乃のその言葉にの々かは更に顔を真っ赤にして髪まで逆立ちそうな勢いだった。ああ、これは間違いない。

「やだーーー! もう! 由乃ちゃんは、何で言うのよ!!」

「いやだって!!」

「二人とも!」

 それまで殆ど静観を決め込んでいた鼓梅が珍しく大きな声を上げたので、由乃との々かは驚いて鼓梅の方を振り返った。

 鼓梅はにっこり微笑んで口元に人差し指を当てると、声を落として二人に告げた。

「……図書室ですわよ?」

 その仕草が、却って怒気を孕んでいるように見えて恐ろしい。由乃との々かは引きつった笑顔を顔に貼り付けて、再び椅子に座り直した。

 そんな三人の様子を、桜子は遠くから笑いを堪えつつ眺めていたのだった。

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