レイヤにログインすると、侑子はいつも必ず訪れる場所があった。レイヤ内には公式の追加コンテンツやユーザー作成のコンテンツがあり、オンラインゲームのように楽しめるものも存在している。侑子はレイヤのマップを開き、ショートカットメニューの中から「Nile」を選択した。途端にマップ画面はフェードアウトし、侑子の視界には大規模な森林公園のような場所が表示された。ここはレイヤ公式追加コンテンツのひとつで、いわゆるMMORPGが楽しめるものだった。 鬱蒼とした木々の中、レンガ敷の小道を侑子は進んでいく。その場所までの位置情報は登録してあるのでショートカットしてもよかったのだが、今日はこの景色を見ながら「歩き」たい気分だった。 周囲のNileユーザーが侑子のアバターをチラチラ見ているのがわかった。ここは曲がりなりにも中世ヨーロッパのような、いかにもRPG然とした世界観なので、他のユーザーのアバターはそれなりの武具を身に纏っている。その中で、ゴシックな占い師の格好をした侑子のアバターは別な意味で目立っていたし、その無防備さも周囲から浮いていた。侑子がここに来るのはゲームを楽しむ目的ではないので、所謂「敵」と戦うのは煩わしいと思っている。なので、敵とエンカウントしないようにするという、このゲーム内にいるユーザーとしてはなんの意味があるのかわからないスクリプトを使用していた。だから侑子も無防備な状態で歩き回れる。ちなみにそのスクリプトは晴彦が侑子用に作成したもので、公開はしていない。ユーザーによる拡張性が高いレイヤにおいてスクリプトの使用は禁止されてはいないが、これに関してはコンテンツの趣旨に反するのでややグレーゾーンであると言える。 水の音が聞こえてくる。滝が近くなってきたのだろう。侑子はそのまま進み続ける。ふいに目の前が開けて、滝が現れた場所で侑子は足を止めた。抜けるような青空と微かに騒めく木の葉の音。まるでエルフが水浴びでもしていそうな川に、見事な滝が流れ込んでいる。その、わざとらしいまでの風景の見事さに侑子はいつも圧倒される。作り物であるからこその完璧な美しさ。これもまた職人技と言えるのだろうと侑子は思った。 侑子の目の前、滝のほとりにいたのは、長い黒髪を揺蕩わせた女戦士のアバターだった。戦士とは言っても物々しい甲冑を着込んでいるわけではない。ゲームらしい如何にもと言った軽装に、防具が組み合わさったような格好だ。しかしその背には、まるで現実味のない——逆に言えば、しっかりとこの世界観に馴染んだ大きな剣が背負われていた。リュミヌー珈琲にあったあの大剣と同じもので、鍔の部分でカチ、カチと歯車が動いている。女戦士は微動だにせず、まるで銅像のようにそこに佇んでいた。 侑子はそのアバターに手を伸ばした。レイヤ内では他のアバターに近づくと相手のユーザー名など簡単なステータスが表示される。しかし、開いたそのアバターのステータスはノイズが混じり文字化けしていて、読むことはできなかった。
「こんにちは。今日も来たよ、ねこねさん」
侑子はその動かないアバターに声をかけた。女戦士からの返事は無い。いつものルーチンで、侑子は彼女とのチャットを開こうとした。しかし、今日も応答は無い。ステータスのオンラインマークだけが虚しく点灯している。侑子は小さく溜息をついて、彼女の髪に指を絡めようとした。当然そんな細かい動きは設定されておらず、その指は虚しくすり抜けただけだった。
「貴女が姿を消してから、そろそろひと月が過ぎるよ。こんなところにアバターだけ残して……一体、どこでどうしているんだい?」
返事が返ってくることはないとわかりつつも、侑子はこうして毎日彼女のアバターに声をかけていた。 普通、Nile内でオンライン状態になっていれば、ただ立っているだけでもいずれ敵とエンカウントしてやられてしまい、Nileのロビーに飛ばされてしまう筈だ。しかし何故か彼女のアバターはエンカウントすることもなく、このひと月ただここに立ち続けている。侑子のようなスクリプトを入れているわけでもない。何も知らないユーザーが見ればNPCかと思ってしまうほど、全くもって奇妙な存在だった。 侑子は胸の前で指を組み合わせ、しばし目を瞑った。手を合わせる、仏教のような祈りをするのは抵抗があった。世界観にそぐわないというのもあったが、それだとまるで彼女が二度と戻ってこないようだと思ったからだ。
「……また来るね」
そう言って、侑子は名残惜しそうに女戦士のアバターに背を向けた。まるで風が吹いたかのように、木々の騒めきに合わせ彼女の髪がふわりと揺れる。侑子が見ていたなら、この追加コンテンツ内にそんなエフェクトは存在しない事に気付いただろう。しかし、その疑問は誰も気付く事なく、ただ滝の音の中に掻き消されていくだけだった。 女戦士のアバターのところへ一匹の蝶が飛んできて、肩に止まり……そして、消えた。
ネットで知り合った仲にしては珍しく、侑子は【ねこね】というアカウント名の彼女の個人情報を比較的知っている方だった。住所、本名、電話番号、誕生日、年齢、夫と息子一人という現在の家族構成、趣味、推しているコンテンツ……それは、仲が良いと表現する事に差し支えは無い関係であろう。入口がネット経由だったこともあって本名を知っていてもその名で呼ぶことは無かったし、送り合う誕生日プレゼントもネットショップ経由という、昔ながらの情緒を好む部類の人には味気ないと思われそうな部分こそあったが、それでも彼女の子どもと一緒に会って食事をすることだってあったし、個別のチャットで悩みを相談し合ったこともあった。要は、侑子にとっては数少ない、気心の知れた友人の一人であったのだ。 そんな彼女が消息を断った。子育てに思い悩んでいる様子はあったものの、失踪するほどのこととは考えにくい。むしろ、侑子と会っている時も子どもに対してはきっちりと対応していた彼女が、自分の意思で子どもを置いていくとは考えづらかった。 ただ、消息を断つ以前、侑子は少しだけ異変を感じていた。彼女とレイヤ内でチャットしていた時に、突然チャット内容が文字化けして読めなくなった、と言っていた事があったのだ。普通に考えればちょっとしたバグであろうし、サポートセンターに問い合わせて終わるような事柄である。実際、その時の侑子はそのことを気にも止めなかった。しかし、それ以降彼女の行動はおかしくなっていったのだ。
「侑子さん」
侑子の目の前に、晴彦のアバターが現れた。晴彦がNileを訪れるのは珍しい。何か緊急の用事だろうかと、侑子は身構えた。
「どうした、晴彦」 「ねこねさんの様子はどうだった?」 「いつもと同じだよ。今日も動いてはいなかった」 「そう……」
晴彦はそう呟くと、侑子にトークルームの申請をした。一対一で会話ができる、秘匿性の高いトークシステムだ。侑子は手をかざして、目の前に表示されたトークルームの通知に触れた。途端に周囲の景色が薄くなる。外側からは二人の姿は見えなくなっていた。
「この後用事はある?」 「午後からデザインの案件が入っている。本業の方だな」 「じゃあ、昼にちょっと時間を作れるかな」 「……用件を先に言え」
周りくどい晴彦の言い回しに、侑子はやや苛立っていた。しかし、晴彦はそれを意に介する風でもなく、言葉を続けた。
「依頼だよ。進藤電脳探偵事務所のほうのね」
そう言って、晴彦のアバターはニコッと笑う。可愛らしいアバターなのでその笑顔は無邪気そうに見えたが、侑子はその笑顔が裏のあるものであることをよく知っていた。
「昼食を早めに済ませれば、可能だな」 「OK。じゃあ先方には12時で伝えておくね。リュミヌーのスペースに案内しておく」
晴彦はそれだけ言うと、トークルームを解除してその場から消えた。既にオフラインになっているようだったので、それだけ伝えに来たのだろう。周囲の景色が元に戻る。侑子は溜息をひとつ吐いて、自分もログアウト処理をした。
********
「やあ、なかなか趣のあるスペースですね! 武器屋を兼ねた珈琲屋ですか」
眼鏡をかけた白衣の医者風アバターは、リュミヌー珈琲のスペースに入ってくるなりそう声をかけてきた。グレーのシャツに黒いネクタイ、同じ色のスラックスと男性風の衣装であるが、アバターの素体は女性のものである。奇を衒ったアバターが多いレイヤ内で、ここまでそっけないアバターを使用しているのも珍しい。プロフィールを確認して事前に聞いていたアカウント名と照合する。彼女が今回の依頼主であることは間違いなさそうだった。 晴彦が手を振って依頼主を席に誘導する。女医者風アバターは晴彦と侑子の向かい側に座ると、軽く頭を下げた。
「こちらでは初めまして。進藤電脳探偵事務所のHALです」 「雹緋です」 「や、ご丁寧にどうも! 風吹です、医者をしてます。と言っても、こちらで医療相談を受けるのがメインなんですけどね。それで医者だとわかりやすいアバターを使ってます」 「ああ、今はそういうサービスも多いですからね」
軽い雑談に晴彦が受け答える。侑子はその間に、トークルームの準備をしていた。
「トークルームの暗号化設定完了。風吹さん、生体認証は設定されていますか?」 「あ、はい」 「では、トークルームを展開します」
侑子のその一言で周囲の景色が薄くなる。即座に晴彦が入室、数秒遅れて女医者——風吹が入ってきた。
「すみません、生体認証に手間取りました」
バツが悪そうにそう笑ったが、風吹はすぐにテーブルの前で指を組み、真面目な表情に変わった。
「まぁ、医者の身でこんなところに相談するのもいささか癪なのですが……そんなことも言ってられない事態でして」 「……心中、お察しします」
「癪」という言葉に、彼女をトークルームから追い出してやろうかと一瞬侑子は思ったが、一呼吸おいて冷静に対応した。相手は医療関係者だ。となると、このような胡散臭いサービスを利用するのに抵抗があるのも止むを得ない。
「さて、本題です。自分が診ている患者さんが一人、レイヤからログアウトできなくなっているのです」
風吹の言葉に、侑子と晴彦は一瞬顔を見合わせた。
「……我々にご相談しているということは、サポートセンターで解決しなかったということですね?」 「勿論」
深く頷く風吹に、侑子は溜息を付いて目を瞑った。どうやら、当たりに近い案件かもしれない。
「詳しく、お伺いします」
晴彦がそう応えたのを耳にして、侑子は密かに音声録音の操作をした。晴彦の目線がこちらに向いたので、小さく頷いてみせる。晴彦はそれを確認して同じように頷いた。
「自分はそもそもで終末期医療に携わる医者でしてね。自宅に戻られた患者さんを遠隔で診ています。このサービスも、そういう患者さんの余暇の一環として使われることがあるのですが、ログアウトできなくなっているのはそういう患者さんです」 「それは……VRデバイスを外してもですか?」 「一度デバイスを外したことがあったのですが、その瞬間から意識不明となって目を覚さず、衰弱が進んでいきました。ダメ元で再度デバイスを装着したところ、意識が戻られたという……不可解な現象が起きています」
侑子は絶句した。一歩間違えれば命に関わる問題である。
「ですから、その患者さんはこの世界にログインしたまま、経鼻経管と点滴で命を繋いでいる状態です。かろうじてまだ手遅れになってはいないのですが、時間の問題でしょう。
レイヤの世界によって、もう行けなくなってしまった場所へ患者さんが擬似的にでも訪れることができるので自分は推奨していたのですが……こんなことになってしまい……」
風吹はそう呟くと、指を組んでいた手を額に付けて俯いた。後悔の滲む彼女の沈黙が重かった。
「承知しました」
沈黙を、晴彦が破った。晴彦は風吹の手を取ると、にこりと微笑んでみせた。
「確かにそれは我々の案件です。早速調査を進めさせていただきますね」
侑子は微動だにしなかったものの、内心で天を仰ぐような気持ちだった。晴彦の、その人当たりの良い笑顔は不思議と人を魅了する。それは侑子が一番よく知っている。しかし。しかしだ。
(簡単に言ってくれる……その調査をするのは、おれだというのに!!)
シェアして下さると心の励みになります
Tweet