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短編集

飢餓の末に

 最初に愛した女の好きな部位はスペアリブだった。
 そのはつらつとした豊満な胸部の奥にある、しなやかな肋骨。褥を共にするたびに、その張りのある皮膚の奥にあるであろう、柔らかい肉の蕩けるような舌触りを想像しては果てていた。彼女の柔肌を甘噛みばかりしていて、苦笑いされながら叱られたものだった。
 いつからそうだったのかはもはや覚えていない。とにかく自分が劣情を覚えた時には、相手は「肉」に見えていた。同年代の悪友たちの話を聞くに、どうやら自分は異端であるらしいことを察したし、そもそも可愛らしいガールフレンドを見て「食べたい」と思う自分がどうかしているという自覚はあった。
 自分は顔立ちの整っているほうであるらしく、また、愛嬌を振り撒くコツも本能的に心得ていた。おかげで自分の隣には常に女性がいたし、そんな自分を友人たちは羨望の目で見ることもあったが、なんだかんだで慕ってくれていた。誰が想像できただろう、そんな自分がどうしようもない、救いようがない情欲に駆られているなどと。臨時収入が入ったから両親に良いものを食べさせるのだと肉屋に嘯いて、店主が気前よく包んでくれた骨付き肉に齧り付いては、どうしようもなく興奮して屹立する己自身を慰めているなど、自分の周りにいる人間たちの誰が考えただろう。
 それでもまだその頃は、家畜の肉に想い人を重ねることで耐えるだけの自制心はあったのだ。
 きっかけは、その時のパートナーだった。彼女はとても家庭的な女性で、料理を得意としていた。二人で会うたびに大きなバスケットを持ってきては、手作りのジャムやサンドイッチを振る舞ってくれた。そんな彼女がある日、自分を家に招待して、目の前で料理を作り始めたのだ。
 彼女は鼻歌を歌いながら、大きな塊肉にナイフを入れた。彼女にとっては日常の中の些細な動作であったのだろう。その、とても楽しそうな仕草が。まるで、自分との結婚生活を想像して浮き足立っているようなその表情が。結果として、私の中のタガと言えるべきものを外してしまった。
 彼女の前でうまくあの興奮を隠せていたのか、今となっては知る由もない。そんな私に、彼女はこう言った。「あなた、とても綺麗に肉料理を食べるのね」……と。それは、とてもとても嬉しそうに。
 それだけで充分だった。私はそれで、貴女を食べてあげようと思ってしまったのだ。

*********

 まずは、神に祈りを。我々に尊い糧をお与え下さる、父なる存在に感謝を捧げる。そして、世界のどこかで今も飢えている哀れな存在にも思いを馳せる。我々の豊かな生活は、どこかで貧しい暮らしを強いられている誰かの犠牲の上に成り立っているのを忘れてはならない。
 そして祈りの言葉を捧げると、私は手元のカトラリーに目線を落とした。銀食器は昔から使っているものをわざわざ実家から持ってきた。というより、家を出る時に母が私に持たせたのだ。今は亡き父が、私が産まれた時に取り寄せたのだと聞いた。銀のスプーンは富の象徴。食べるものに困らぬようにとの祈りが込められたものだ。
 私はそのスプーンを手に取って、シチューを掬い口元に運ぶ。コクのあるスープが喉を通っていった。次に、シチューの中に浮かぶ具材を口の中に入れた。舌の上で肉が解けていく。ああ、レナの言っていた通りだ。弱火でじっくりと煮込むと肉がとても柔らかくなる。我ながら下処理も上手くなったと思う。最初は若干食べるのに難儀したが、今日は臭みも無く口当たりの良い仕上がりになった。ああ、とても素敵だ。エリー。君はとても、マッシュルームとの相性が良いんだね。
 そのまま、シチューの隣の皿を手繰り寄せる。煮込むか焼くかで迷ったが、リタは大腿のあたりをそのまま、少し赤みの残るミディアムレアぐらいに焼いてみた。大きな肉をナイフで一口大に切り分け、ソースをからめて口に運ぶ。豊かな脂の旨みが口の中に広がって、恍惚とした。スカート越しでもわかる彼女の肉感的な太腿を見るたびに興奮していたと言ったら、君は笑うだろうか? 本当に本当に魅力的だと思っていたんだ。ずっと、こうしたかった。
 同じ皿に添えられた腸詰は、トムだ。昔から仲良くしていた彼が、私のことを恋愛対象として見ていると言ってきた時は驚いた。トム、あの時はつれない返事をしてしまってすまなかったと思っている。私は、関係が変わることで君という友人を失うのが怖かったんだ。だが、私は好奇心に勝てなかった。「男性の肉は女性の肉と味が違うのだろうか」と思ってしまったんだ。それに、顔立ちが中性的だった君は、ヘテロセクシュアルの私でもたまにクラッとすることがあった。だから君を選んだんだ。腸詰をナイフで刺して、前歯で齧る。口の中に肉汁が広がった。うん、苦労して腸詰にした甲斐があった。君もとても美味しい。これは私にとっても嬉しい誤算だった。
 そして、レナ。私がこの行動に至るきっかけをくれた女性。君のことは大事に大事に、色んな料理を試させてもらった。もっと君で色々試したかったんだけど、行動に移したのが暑い季節だったから、すぐに肉が痛んでしまうと思ったんだ。だから、残りは干し肉にさせてもらった。目の前のグラスに、細長いプレッツェルのように飾られたレナを見て、私は目を細めた。手を伸ばしてその中の一本を手に取ると、口の中に運んでその硬い肉を噛み締める。強めの味付けにしたが彼女本来の味は失われていない。初めて彼女を口にした時の感動を思い出す。その柔らかく脂ののった肉は、優しく笑う彼女の表情そのものだった。
 若干外が騒がしい気がしたが、私は気にせず食事を続けた。こんなに魅力的な料理に囲まれているというのに、食べない方がどうかしている。レナのジャーキーを嚥下すると、もう一度トムの腸詰を齧った。ああ、君をパンに挟んで外に持ち歩きたい。君と他愛無い話をしていた時のように、路地を歩きながら食べてみたい。トムはピクルスが嫌いだったが、きっとピクルスもよく合うと私は思う。二人で歩いていた時に時々感じていた彼の目線の正体が、今の私ならとてもよくわかる。トムを咀嚼して飲み干すと、今度はリタに手を出した。切り分けた肉にフォークを差した私は、ふと思い立ってその肉をエリーのシチューに浸す。そして口に運ぶと、先ほどとはまた違った味わいが楽しめた。男の目線を我が物としていたリタは、脂の旨味もさることながらその弾力のある歯応えが堪らない。リタとは一度関係を持っただけだったが、確かにその体は男たちが好みそうな豊満さで、恥ずかしながら私も彼女の魅力に目を奪われた一人だった。彼女の髪からはいつも甘い香りがしていたが、その体はスパイシーな調味料と相性が良いようだ。なんて舌触りだろう。君と一夜を共にした時は、こんな日がくるなんて思いもしなかった。今こうして私が君を独り占めしていると知ったら、君の取り巻きたちは一体どんな顔をするだろうか?そんなことを考えていると自然に口元が緩んでいた、その時だった。
 凄まじい音と共にドアが破られた。そこから、何人もの男たちが入ってきた。腕章を見るに憲兵だ。彼らは私を見つけてすぐさま鬼のような形相で向かってきたが、すぐに足を止めていた。騒がしい、なんだというんだ。

「うゥッ……なんだ、これは……」

 彼らが部屋の中を見回して、あまりにも異様なものを見るような顔をしているので、私も顔を上げた。ずっとここにいた私は鼻が麻痺してしまっているようだが、料理が出ている部屋というものは匂いがこもるものだ。男たちは鼻を覆っていた。ああ、そして料理の後片付けを後回しにしてしまっていた。リタとエリーが出しっぱなしだ。
 一番若い憲兵が、その場で吐瀉してしまった。可哀想に、気分が悪いのだろうか。

「すみません、片付けもしていない部屋で……お気分よろしくないようですが、大丈夫ですか?」

 私が微笑みかけると、嘔吐した若い憲兵は青い顔で後ずさった。
 その後の記憶は、やや朦朧としていてはっきりと思い出せない。とにかく私は、そのまま憲兵に連れて行かれたようだ。部屋に残してきた彼女たちだけが、私の心残りだったことだけは覚えている。

*********

 牢獄での食事はひどいものだった。パンは私が老人だったら歯が欠けるのではないかと思うほど硬かったし、わずかな野菜クズしか浮いていないスープは温かかったためしがなかった。そんな粗末な食事すら、同じ牢の囚人が狙っているので急いで食べなければならない。私が牢に入ってまもなく、気弱そうな囚人が餓死した事もあった。
 不幸中の幸いは、ここに来てからあまり空腹を感じなかった事だ。食事を取られた時はもちろん腹が鳴って眠れなくなるのだが、あの、どうしようもなく乾くような、食べたくて仕方がなくなる、猛烈な空腹感は鳴りをひそめていた。
 これは収監されて初めて知ったのだが、どうやら囚人は外からの差入れを受け取る事ができるらしい。私のところにも一度だけ母からの差し入れがあった。毛布と金銭で、他の囚人が受け取るような食糧は入っていなかった。やつれた母は、帰り際にぽつりとこう言った。「お前のことは、死んだのだと思うことにする」と。この毛布は母の最後の情けだったのだろう。それ以降、私の元を訪れる人間は誰一人としていなかった。
 粗暴な荒くれ者が多い牢獄の中で、私は目立つ存在であったらしい。それはあまりありがたいことではなく、私はいつも他の囚人たちの目の敵とされた。食事を取られる、気に入らない事があればサンドバッグにされる、欲を持て余した囚人から女の代わりにされた事もあった。だが、正直私はそれらに対して何かの感慨を持つことはなかった。体はボロボロになっていくしどんどん痩せ細っていくのがわかったが、それでもあの飢餓感に比べたらまだマシな気さえしたのだ。

 その日も私は他の囚人に殴られていた。牢獄に隔離されて大した運動もしてないような男でも、その拳を腹に受けるとそれなりのダメージだ。ちなみに殴られた理由は、私の腹の音が気に入らなかったかららしい。私の食事を奪っておいて、なかなかの無茶を言う。
 足に力が入らなくなって硬い地面にどさりと倒れ込むと、ようやく相手は納得したらしい。私から離れて、私から奪ったスープを飲み始めた。
 どこもかしこも痛かった。以前骨を折ったのか、数日痛みで眠れなかった左あばらもまた損傷していそうだ。はあ、と小さくため息を吐くと、殴られた腹の痛みがぶり返した。
 その時だった。私の目の前を、何かが通っていった。その動きは素早く、私は一瞬何が通ったのか分からなかった。わずかに首を動かして、それが向かった方向へ目を動かす。そこにいたのは、痩せこけた薄汚いネズミだった。片耳が欠けていて、残った右の耳をピクピクと動かしている。立ち止まったネズミは一瞬だけ私の方に目を向けて、長い尻尾をゆらりと動かした。
 ここでは珍しくもない来訪者だが、私は目が合ったそのネズミに興味を持った。そしてまた動き始めた彼を、痛みを堪えながら目で追いかけた。
 ネズミはさっきまで私を殴っていた男のところへ近づくと、スープを飲む男の目を盗んでそのパンに齧り付いた。そして、その痩せた体のどこにそんな力があるのかと思ったが、そのパンを咥えたまま走り出した。気付いた男が大声を上げてスープの器をネズミに投げつけたが、既にネズミは牢の外へ逃げ去った後だった。

「はははっ」

 思わず私は声を出して笑っていた。笑うなど、ここに来てから初めての事かもしれない。そのネズミの行動が何故かとてもおかしかった。
 その後、パンを盗まれた男にまた腹を蹴られたのは言うまでも無い。

*********

 それからというもの、私はわざわざ食事のパンを食べずに隠し持ち、あのネズミが現れると自分のパンを分け与えた。片耳のネズミはそのネズミだけだったので、見分けるのはさして難しくなかった。
 他の囚人のように食糧の差し入れなど無い私にとって、食べるものは一日に1〜2回あるか無いかのその食事しか無かったし、運が悪ければその食事も他の囚人に奪われてしまうのだが、監獄での食事に興味が持てない私にとって、それは唯一の娯楽となった。始めは私を警戒していた片耳ネズミも、エサにありつけると学習してからは真っ先に私のところへ来るようになった。賢いものだ。囚人などみな一様に痩せこけてボロボロの服を着ているというのに、きちんとを見分けている。

「やぁ、また来たのかい」

 今日も片耳ネズミは私の元へやってきた。私は周りに聞こえぬよう小声で彼に語りかけると、ポケットからパンをひとかけ取り出して彼の近くへ置いてやった。
 彼はふんふんとパンの匂いを嗅ぎ、私とパンを交互に見た。そんな何気無い仕草さえ、私の心を癒してくれる。そういえば、このネズミは最初に見た時はやたら痩せこけて毛並みもパサパサしていると思ったのだが、最近は他のネズミよりも若干ふっくらしているし、何より毛艶が良くなった。最初から欠けている左耳はもうどうしようもないだろうが、だんだん飼われている愛玩動物のような愛嬌を持ち始めている。始めはただの気まぐれでエサを与えていたのだが、今ではこの片耳ネズミに対して愛着すら感じ始めているようにも思う。
 ネズミはさっきからずっとパンの匂いを嗅いでいる。そういえば、いつもそそくさとパンを持ち去ってしまうのに、今日はいつもより長く私の前にいるような気がする。

「!」

 なんと、ネズミは私の目の前でパンを齧り始めた。その歯で器用にパンを小さく千切り、口の中へ入れていく。

「はは……は……」

 間違いない。私の近くが安全な場所であると判断したのだ。一心不乱にパンを齧って頬袋を大きくしていくその様に、なんとも言えない愛しさが込み上げた。ああ、必死で生きる生き物とは、こんなにも美しいものだったのか。

 ふと。ドクン、と大きく心臓が脈打った気がした。覚えがある感覚。これは、まさか。いや違う。そんな訳はない。

 私は酷く動揺してしまっていて、他の囚人が一人、私のところへ近付いてきていることに気付いていなかった。気配を察した片耳ネズミは、突然パンを咥えて走り去ってしまった。私が呆気に取られてネズミの去った方向を見ていると、突然横っ面を殴られた。

「流石は巷を騒がせた食人鬼様だ。監獄のメシなんぞネズミのエサでちょうどいいってわけか。恐れ入る」

 殴られた衝撃で、口の中をどこか切ったらしい。馴染みのある鉄臭さが口の中に広がった。その時、私ははっきりと自覚した。

(腹が……減った……)

 私は、監獄に入って初めて感じたその感覚に酷く衝撃を受けていて、私を殴ったその囚人が何を言っているのか全く耳に入っていなかった。
 後から知ったのだが、その囚人はどこかから耳にした情報を私に伝えていたらしい。曰く、私の死刑執行日が決まったそうだ。
 
*********

 その日は、やけにあっさりと訪れた。
 今更、もっと生きていたいと思うわけでもない。私が行った非人道的な行動を考えれば、当然の報いであると思う。
 いや。私は頭のどこかで今も、私のしたことが非人道的だったとは思っていないのかもしれない。私にとってのリビドーの形が、他の人間と違っていただけの話だ。私はあの時、強く強く、興奮していたのだ。

 だからこそ。その衝動が抑えられなかった私は、こういう結末に至る運命だったのだ。

 そのうち、看守が私を迎えにくるのだろう。しかし、私の体はピクリとも動かなかった。私の体の上にかかっている毛布は、あの日最後に見た母が差し入れてくれたものだ。もう随分薄汚れている。その毛布からはみ出て目の前に横たわる私の手のひらは、以前はそれなりに逞しいものだったのだが、今は節くれ、骨が浮き出て見える。なけなしの食事すらネズミに分け与えていたのだ、当然のことかもしれない。

「やぁ……また来たのかい……」

 私の目線の先に片耳ネズミが現れて、私は声を絞り出した。

「ごめんよ……今日は、パンは無いんだ」

 私が言った言葉の意味を知ってか知らずか、ネズミは私に近付いてきた。そして、今までパンに対してそうしていたように、私の細い指に鼻先を寄せてふんふんと匂いを嗅いでいた。ネズミの柔らかな毛並みが、私の指先に軽く触れる。ネズミは私の手のひらの上に乗って、私の方をじっと見つめていた。

 その時、私は全てを理解した。私のどうしようもない、本当にどうしようもなかったあの食欲は、リビドーからくるものなどではなかったのだ。まるまると太った、愛しい愛しい片耳ネズミ。私に対してなんの警戒心もなく、手のひらにさえ乗るようになってしまったネズミ。もし私に力があったなら、きっと私はこのネズミを握り締めて、そして……ああ、私はこんなにも、業が深い人間だったのか。

「……時間だ」

 看守の声が聞こえた。そうか、もうその時間なのか。当然の報いであるし、私の絞首が誰かの気持ちの安寧に繋がるなら、それでいいと思っている。私は知ってしまったのだ。たった今、こんな最後の最後に知ってしまったのだ。私はこうなるべき人間であるということに。そう、私の食欲はリビドーからくるものなどではない。それならまだ耐えられたはずなのだ。肉屋で買った骨付き肉に齧り付いて自らを慰めていれば良かった話なのだ。だが、そうではなかった。私は、純粋な愛情すら食欲につながっていた。現に今、私はとてつもない飢餓感を感じている。
 動けなくなった私の両脇を、二人の看守が抱え込んだ。そんな私を、片耳ネズミは不思議そうに覗き込んでいる。そんなネズミの表情すら、私の腹に響いた。なんて可愛らしい顔をするのだろう。可愛くて、可愛くて……涙が込み上げてきた。同時に、私が手をかけてきたものたちのことが脳裏を過った。レナ、エリー、リタ、トム……そうか、愛していたのだ。私はその口に入れた全ての人間を、愛していたのだ。

「私はお前を……食べ愛したかったよ……」

 両脇を抱え込む看守が、一瞬ゾッとした顔で私の方を見た。だが、その手は休められることなく、私は引きずられるようにその牢獄を後にした。ほうっておいてもいずれ召されるであろう人間をわざわざ刑に処すとは、行政もご苦労なことだ。

 私の最期の呟きは、彼に届いたのだろうか。

*********

 空腹感を感じた彼は、巣を離れていつもの餌場へと向かうことにした。なにせ備蓄はもう底を尽きていた。あの餌場は荒くれ者の人間が多いので危険を伴うが、近くの餌場と言えばあそこぐらいなので背に腹は変えられない。それに、最近は食糧を分け与えてくれる酔狂な人間がいる。何故かあの人間は自分だけを選んで食糧を与えているようだ。彼が他のネズミのように足を伸ばして他の餌場を探さないのは、そういう理由もあった。
 穴ぐらを抜けて地下牢の隅を走り抜け、いつもの檻の中に入る。すると、彼は異変に気付いた。牢の中にあの人間が居ない。しばらく中をあちこち走り回ってみたが、いつもの荒くれ者に石を投げられるばかりだった。
 ふと、牢の隅に見覚えのあるものが見えた。近寄ると、それが毛布であることがわかった。ボロボロで薄汚れたその毛布は、あの人間が包まっていたものだ。あの人間を最後に見た時も、確かこの毛布をかけていた。
 彼は毛布の中に入ってみた。擦り切れて薄くなった毛布は少しも暖まることができない。牢の床の冷たさが体に染みるばかりだ。だが、巣材にするにはちょうど良い。彼は内側から毛布を齧り、頬袋に詰め込んだ。試しに少し、巣に持ち帰る事にしたのだ。
 彼は毛布の切れ端を詰め込めるだけ詰め込むと、また荒くれ者に石を投げられながらその牢を後にした。檻を出たところで、彼はふと牢の中を振り返った。
 暗い牢獄。荒くれ者の囚人。いなくなった人間。取り残されたボロボロの薄い毛布。

 ああ、なんと  な人間であったのだろう。

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