「改めて。進藤、それと……」 「侑子です」 「ああ、そうだ。侑子さん。ご結婚、おめでとうございます!」
榊はそう言いながら、テーブルの向かい側の晴彦と侑子に小洒落た紙袋を差し出した。二人は思わず目を見合わせて、それから差し出された紙袋に目を向けた。 リュミヌー珈琲の店内には、相変わらず香ばしい珈琲の香りが漂っている。郊外、それもやや車を停めづらいこの場所を、県外に住んでいる榊に説明するのは若干骨が折れたが、表の大きな看板を見てひと目でわかったと榊は笑っていた。
「侑子さんとは、こうしてお会いするのは初めてですね。オンラインやレイヤ内では何回もお話しさせてもらってるのに、不思議なもんです」 「やだなぁ、榊チーフ。それもう、初老の価値観ですよ」 「うるせえ、こちとらもう孫がいてもおかしくねぇ歳なんだよ」
二人が旧知の仲らしく盛り上がるのを、侑子は曖昧な笑顔で見守っていた。なおも軽口でやりとりを続ける二人を横目に、侑子は目の前の紙袋を手に取った。
「すみません……これ、開けても?」 「ああ、すみません! どうぞどうぞ!」
榊に一言断りを入れてから、侑子は紙袋の中身を手に取った。中に入っていたのは小さい箱で、包装紙を開くと桐箱が現れた。
「あ、箸……」 「そうそう、俺はセンス無いからうちの嫁ちゃんに選んでもらったんですけどね。進藤はほっとくと割り箸とかで済ませそうだったんで、あってもいいかと思って」
中から出てきたのは塗り箸だった。持ち手の部分に少しだけ煌めいているのは、貝の真珠層か。同じような意匠の二対の箸、所謂夫婦箸だ。
「流石は旧知の仲ですね。全くその通りです……ありがとうございます」 「へえ……素敵な箸ですね。流石はチーフの奥様」 「おう、そうだろ? もっと褒めろ、俺の株が上がるから」
そう言って榊はニヤニヤ笑っていたが、侑子が桐箱を紙袋に戻すと、表情を一変させた。
「ところで、進藤。こないだの患者は結局どうなったんだ?」
榊の言葉に、晴彦はやや表情を曇らせた。その理由を知っている侑子は、唇の裏をきゅっと噛み締めた。
「……亡くなったそうです。元々緩和ケアに入っていた方ですし、時間の問題ではあったのだと思いますが」 「それでも、風吹さんは感謝していましたね。最期に意識を取り戻して、ご家族の顔を見ることができたそうなので」
晴彦の重い口調に、侑子は補足を重ねた。彼のアバターが消えた時に現れた「運命の輪」のカードを侑子は思い出していた。 それさえも、運命であると……あのカードは、そう言いたいのだろうだろうか。
「そうか……まあ、今回は案件が案件だったからな。せめて意識を取り戻せたなら良かったと言うべきなのか……」 「クライアントにご満足いただけたのなら、結果はどうあれ我々の仕事としては成功と言っていいと思います」
口を付いて出てきた言葉は、我ながら冷たいニュアンスを含んでいるなと侑子は思った。案の定、榊の意外そうな目線が侑子に刺さっていた。
「そういうところは、案外侑子さんはドライなんですね」 「どう……なんでしょうね?」
苦笑いをしながら、侑子は曖昧に答えた。 少なくとも。あの患者の最期は、自分の父親よりは恵まれていた。そんな考えが、自分の根底にあるのだろうと侑子は思った。
「それで……侑子さん。先日のダイブからここまで、体の異変はありませんか?」
榊の言葉に、侑子はぴくりと反応した。
「今のところ、何も問題はありません……と言いたいところですが、若干夢見が悪くなりましたね。あの時のことをよく夢に見ます。ただ……その程度です」 「いや、夢に症状が出てるのは危険かもしれません。あれは、レイヤの深層部にある別なチャンネルと思われます。それも、かなり霊的な……恐らく、侑子さんのエーテル体だからこそダイブできたのでしょう」
榊は次の言葉を続けようとしたが、「失礼します」とマスターに声をかけられて口を閉じた。
「お待たせしました。ピンクブルボンとアナエロビックです。アメジストソーダ、もう少々お待ち下さい。……ごゆっくりどうぞ」
榊は、マスターに出されたピンクブルボンを手元に寄せて、少し口を付けた。濃紺の大柄な模様が描かれたカップから、慎ましやかに湯気が立っている。晴彦も同じように、自分の珈琲を手元に寄せた。
「……おっ、美味いな。若干、果実のような酸味があるというか」 「さすが榊チーフ。オブジェの異世界感が一際目を引くのでそっちに目が行っちゃいますけど、ここ珈琲もかなり美味しいんですよ」 「ふうん、なるほどな」
榊はそう呟いて、なおも珈琲を一口啜った。そしてカップをソーサーに戻すと、目線を再び侑子の方に向けた。
「あの時、侑子さんの共鳴装置は黒に近付いていました。完全に黒に至れば、肉体に戻ってこれなかった可能性があります。自覚はないかもしれませんが、あの時だいぶ危険なところまで貴女はダイブしていたんです」
テーブルの下で、侑子はグッと拳を握りしめた。確かにあの後、侑子は昏睡するように意識を手放した。晴彦は車を運転できないため、豆を焙煎するために遅くまで店にいたマスターが二人を送り届けたのだ。マスターには手間を取らせてしまった。
「まぁ、そのおかげで俺たちは確信に近付くことができましたけどね」
侑子の様子を気にしたのかはわからないが、晴彦がフォローするように口を開いた。侑子はあの時の晴彦の様子を思い出した。後にも先にも、侑子はあんなに焦った様子の晴彦を見たことがない。
「……そもそも、レイヤってなんなんですか。なぜメタバースの世界に、あんな位相が?」
侑子の口を突いて出た疑問に、晴彦と榊は目を見合わせた。榊はバツが悪そうにため息をつく。
「そうだな……侑子さんは知る権利がある。あれは……」 「俺から説明します」
説明しようとした榊を、晴彦が遮った。晴彦は侑子の方に目線を向けて、口を開いた。
「俺と榊チーフは、元々レムコード……レイヤのサービスを提供しているところの、日本支社に所属していたんだ」 「……えっ?」
意表を突いた告白に、侑子は目を丸くして晴彦と榊を代わる代わる見た。言われてみれば晴彦の技術や知識の深さは、大手のIT企業に勤めていたと言われても納得できるものだった。 しかし、レイヤは今や世界の誰もが知るVRサービスである。それを運営するほどの大企業であるレムコード社。晴彦は何故、その大手企業を離れてフリーランスのような仕事をしながらレイヤを探っているのか?
「まあ、俺は進藤みたいに完全に離脱したわけじゃないですけどね。今いるのもレムコードの下請なんですが……その方が、色々と都合がいいだろ?」
そう言って、榊はニヤリと笑い晴彦に目配せをした。 自分はもしや、とんでもないものに巻き込まれているのではないだろうか、と今更ながらに侑子は思った。嫌な予感しかしない。
「レムコードにいた時から、社内に不穏なプロジェクトがあるのは気付いていた。実在の人物の人格をAIで再現しようとしたり、やたらと故人アカウントの扱いに執着したり……それだけでも十分怪しかったんだが、ある日……俺の上司に当たる人が、死んだ」 「……!」
晴彦の言葉で、侑子は自分の嫌な予感がほぼ確実であることを知った。思わず目を瞑り、二人に悟られないようゆっくりと呼吸を整えた。再び瞼を開くと、ちょうど目線の先にあった冷水のグラスの表面を、結露した水滴がひとすじ流れていった。
「佐々木っていう……クソが付くほど真面目な奴でしてね。俺の同期でもありました。ある朝俺が出社すると、そいつの席のパソコンが立ち上がったままで……朝まで仕事してたのかと思ったんですが、どこを探しても見当たらない。ダメ元でサーバー室を開けてみたら、そこでぶっ倒れてたんです。表向きには過労死ってことになってますが……」 「佐々木さんは、あのプロジェクトに巻き込まれて死んだんだ」
晴彦は、いつにないはっきりとした口調で断言した。侑子は思わず目線を晴彦の方に向けた。晴彦の目は、いつにも増して暗く澱んでいる。侑子は無意識に、自分の左手に右手の爪を食い込ませていた。
「侑子さんが飛ばされた、あの位相……暫定的に、Netherlayerとしましょうか。あの場所が存在することが、より確証に繋がっていると思います」
Netherlayer。その名前に、侑子はあの時の感覚を思い出した。重複する視界。薄暗い洞窟のような世界。集中していなければ、意識ごと持っていかれそうな感覚さえあったように思う。Netherとはよく例えたものだ、と侑子は思った。
「ただ……俺たちも現時点でわかっているのはその程度です。正直、侑子さんがあの時体を張って頑張ってくれたからこそ、知り得た情報もたくさんあります。情けない話ですが……」
手を握られた感触で、侑子ははたと我に返った。目線をあげると、晴彦がこちらを見つめている。侑子の手を握っているのは、晴彦の手だった。侑子はそこで、酷く爪を食い込ませていたことに初めて気付いた。
「侑子さん。俺は、佐々木さんの死の真相が知りたい。レムコードは……何かをしようとしている。それを突き止めるには貴女が頼りなんだ。危険なことを押し付けるようだけど……」
そういって必死な表情を見せる晴彦に、場違いにも侑子は胸を高鳴らせた。そもそもで、晴彦に執着していたのは侑子の方である。その相手にこんなふうに頼られて、悪い気がするはずもない。
(我ながら、チョロいな……)
心の中でそう自嘲し小さく溜息をつくと、侑子はニヤリと笑ってみせた。
「当たり前だ、旦那様。そのためにおれと結婚したんだろ?」
侑子の言葉に、晴彦は一瞬不可解な顔をした。眉を顰めた晴彦のその表情に侑子は言葉のチョイスを間違えたかと思ったが、晴彦はすぐに口角を上げて侑子の手を取り、その手の甲に口付けてみせた。
「ちょっ……!」 「流石は侑子さん。頼もしいね」
侑子は慌ててその手を引き抜く。先ほどの殊勝な表情はどこへやら、晴彦は侑子の反応を見てにやにやと笑っていた。
「あーあーあー、見てらんねえ。イチャイチャするなら家でやってくれよな」 「すみませんって、榊チーフ」
榊と晴彦のやりとりをよそに、侑子は口付けされた手の甲をもう片手でさすっていた。まただ。この男はこういうことをシレッとやるのだ。晴彦に侑子への情があるのかなど、侑子は知る由もない。だが、今聞いた通り晴彦は目的がある。晴彦にとって侑子の存在は、目的を果たすための駒に過ぎないのであろう。直情型の侑子ではあるが、そのぐらいの分別が付くぐらいには人生経験を重ねていた。なので、そんな晴彦の思わせぶりな行動は、若干侑子を苛つかせるのだった。
「お話し中のところ失礼します。アメジストソーダをお持ちしました」 「あ、はい……」
マスターの声がして、思わず侑子は気の抜けた声を出してしまった。目の前に置かれたグラスの中には、アメジストに見立てた紫色のゼリーと氷、炭酸水が満たされ、その上に同様の赤紫色をしたアイスが乗せられていた。
「へえ、めちゃくちゃオシャレなメニューがあるんだな」 「期間限定で出てる鉱石ソーダシリーズですね。今はアメジストですけど、この前はフローライトでした。見た目が綺麗なだけじゃなくて、味もなかなかですよ」
晴彦の説明を聞きながら、侑子はストローの袋を外してグラスの中に差し込んだ。その時、手の甲に付いた爪の跡が見えて何かを思い出しそうになった。 手甲型のアクセサリー。赤い蝶と黒い蝶。
「あ……」
不意に漏れた侑子の声に、晴彦と榊は彼女の方を見た。
「そうだ……あの時。引き戻される直前に、蝶を見たんです。そして、その蝶の先にいたのが……あれはねこねさんでした」 「ねこねさん?」 「侑子さんの友人です。先月ぐらいから……レイヤ内にアバターを残したまま、消息不明になっているんです」 「ふむ……」
榊は晴彦の説明を聞いて、少し考え込んでいる様子だった。その榊を前に、侑子は言葉を続けた。
「あそこに……Netherlayerにねこねさんがいるのなら、自分にもあなた達に手を貸す理由があります。……おれは、ねこねさんの安否を確認したい」 「なるほど。利害は一致するってことですね?」
榊の言葉に、侑子は深く頷いた。榊はニッと口角を上げると、侑子の前に手を差し出した。
「そういうことでしたら……改めてよろしくお願いします。ただし、無理はしないで下さいね? どんな危険があるかわからない状況です」
侑子は無言で榊の手を握ると、横からも手が伸びてきた。晴彦だった。
「俺からも……お願いします。侑子さん」
誰からともなく、その合わせた手には力が入っているのを侑子は感じた。アメジストソーダの上のアイスは、若干溶け始めていた。
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