わかったことがある。 Netherlayerにダイブする鍵は、Netherlayerに囚われている不審アカウントのアバターに、エーテル体の状態で接触すること。これは遥奈のアバターに接触することでクリアできた。(しかしそれは、遥奈がNetherlayerに囚われていることの裏付けにもなってしまったわけだが) そして、Netherlayer自体の位相はひとつであるらしいこと。接触した不審アカウントごとに違う位相になる可能性も榊は示唆していたが、侑子の体感的にはその可能性はなさそうだと思った。ダイブする場所によって見える景色はいつも同じものであったし、実際晴彦も、侑子のエーテル体を追えるチャンネルは変わっていないと言っていた。それはまるで、透明なフィルムを重ねているかのような——まさしくレイヤーのように——そのワールドに重なって存在しているようだった。
『Netherlayerについての情報は、俺がレムコードに所属していた時も公表されてはいなかった。だから、現状でこちらがわかっていることは、侑子さんから得られる情報だけなんだ』
晴彦は、多少申し訳なさそうにそう付け加えた。あの後晴彦はAetherLinkに改良を加えたらしく、晴彦の音声がダイブ中の侑子の耳に届くようになっていた。曰く「本来使っちゃいけない通信帯域なので、榊チーフにも伝えていない」とのことだったが、侑子にはよくわからない技術でなんとかしたのだろうと認識している。正直、これはありがたかった。ダイブ中の侑子側から晴彦に意思疎通を試みようとすると、霊的アクションが必要になるため、かなりの精神力を消耗するからだ。
『いや、情報をまとめてくれているだけでもありがたい。正直おれは、直感で動いているだけだからな』
そう言うと、侑子は周囲を見回した。ダイブ直後の視界は相変わらずダブって見える。遥奈のアバターが立つ滝の辺りが、洞窟のようなNetherlayerの風景に重なって見えていた。侑子は深呼吸して目を閉じ、いつものようにチャクラを整えた。
『どう? ねこねさんはいそう?』
晴彦の言葉に、侑子はゆっくりと目を開けた。薄暗い、光の少ない世界。まとわりつく空気が重く感じる。やがて目が慣れてくると視野が広がっていったが、しかしそこにはなんの気配も感じなかった。
『以前はここに、蝶が飛んでいたんだけどな……』
そう呟いて、侑子は歩き出した。しかしすぐに、顔面、もっと言えば口元に違和感を感じた。同時に口の中に広がる鉄臭さ。しまった、と思う間もなく、瞬時に侑子の意識は現実に引き戻されていた。
「侑子さん!」
まただ。気持ちが悪いぐらい体中にまとわりつく汗。顔面蒼白の表情でこちらを覗き込む晴彦。晴彦の手にはAetherLinkのケーブルが握られていた。おそらくコンピューターからの処理では間に合わないと判断して、直接AetherLinkの接続を遮断したのだろう。ダイブ中に違和感があった口元を手で無造作に拭うと、真っ赤な血が手に広がっていた。
「ダメだ、鼻血が止まるまで起き上がらないで。とりあえずこれで鼻を押さえて」
そう言われて受け取ったティッシュを鼻に押し付け、起きあがろうとしていた上体を背もたれに戻した。気付くと、着ていた服にもおびだたしい血が付いていた。AetherLinkの機械内部に入り込まなかっただろうかと侑子は焦ったが、幸いにして自分の服を汚しただけのようだった。侑子にはなぜ動いているのかわからないこのVR装置に何かあれば、最悪戻ってこれなくなるのは自分なのだ。
「……すまない。前よりもダイブできる時間が短くなってしまった」 「この前の改良が影響してるのかもしれない。もしかしたら何回も繰り返したことで、エーテル体がより深くNetherlayerに入り込んでいる可能性も……」
晴彦がそこまで言いかけたところで、ラップトップの画面に通知が入った。通知音で何気なくそちらに目をやった晴彦が、一瞬「しまった」と言わんばかりに目を見開き、溜息を付いて首を垂れた。 侑子は少し頭を持ち上げて、画面に目線を向けた。それは、榊からのメッセージだった。
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「おい、俺がなんで怒ってるかわかってるんだろ? このバカ夫婦!」
榊はリュミヌー珈琲のレイヤ支店に入るや否や、トークルームを展開すらせずに二人を怒鳴りつけた。
「あの……せめてトークルームを……」 「うるせえこのバカ! なんだあのダイブ回数は!? 2週間で10回以上!! 1日に2回ダイブしてる日まであったじゃねえか!」
頭ごなしに叱られる晴彦を見て、侑子も肝が冷える思いだった。鼻血を出したことなど話そうものなら、もうダイブさせてもらえなさそうな勢いだ。侑子はグッと口をつぐんで、うっかり余計なことを言わないようにしようと心に決めた。
「ったく、次にダイブする時は必ず声をかけろって言ったよな俺は? それがなんだ。二人でコソコソやりやがって。お前、勝手にAetherLinkを弄っただろう? 以前とログの残り方が変わってたから、おかしいと思ったんだよ。俺がダイブのログを確認しなかったらどうなってたことか……」 「いや、でもそろそろ間をあけようかと……」 「当たり前だ、バカ!」
榊は一言そう怒鳴りつけると、大きな溜息を付いてようやく二人の前に腰を落ち着けた。晴彦も侑子も、ただただ縮こまって榊の怒りが通り過ぎるのを待つしかなかった。
「……いいか? お前が危険な目に合わせてるのはお前自身じゃねえんだぞ? 彼女のご両親がここまで立派に育て上げた、大事な娘さんだ。わかってんのか?」 「ええ、まぁ……」 「お前……!」 「あの……」
なおも声を荒げる榊に向かって、侑子は恐る恐る片手を上げて、声を出した。
「お恥ずかしながら……自分はもう、娘と言うにはトウが立っていると思うんですけど……」 「いや、そうじゃなくて……」 「それに……大事だったかどうかは、些か疑問が残りますかね……ははは……」
侑子はもう苦笑いをするぐらいしか、その場を和ませる方法を思いつかなかった。榊はロマンスグレーの髪をわしゃわしゃと掻きむしりながら、またも盛大な溜息をついた。
「あの……そうだったとしても……そうじゃないんですよ、侑子さん」
絞り出すような榊の声に、引き攣っていた口元を戻した。この声のトーンは、本当に心底心配しているものだった。
「進藤、お前な……佐々木を思う気持ちは俺だって痛いほどわかるよ。だけど、このままじゃ嫁さんが同じ目に遭うとは思わねえのか? 嫁さんが、佐々木や岡崎の二の舞になってもいいってのか?」 「それは……」
晴彦が、あからさまに目を泳がせたのがわかった。こんなふうに言葉に詰まる晴彦を、侑子は見たことがない。思わず、侑子は口を開いていた。
「おれが……自分が頼んだんです、ダイブさせて欲しいと。晴彦だけの責任ではありません」
その言葉に、榊は侑子の方をじっと見つめた。
「ねこねさんが……いるかもしれないと思うと……おれは……」
自分の声が、震えるのがわかった。あの、暗くて寂しい場所を、彼女自身が選んでいるとはどうしても思いたくなかった。
「……あの……お話中すみません」
唐突なマチュの声で、侑子は我に返った。マチュがいつの間にかテーブルの横に立っていた。一斉に三人からの注目を浴びたマチュは、若干怯んだような表情を見せたが、すぐに表情を戻して手元のコーヒーカップを三人のテーブルの前に置いた。
「これ、ちょっと試してみてもらえます? 香りを再現できるアイテムを自作してみたんですよ」 「……はぁ」
気の抜けた声で応えたが、なおもニコニコと笑っているマチュに毒気を抜かれて、とりあえずコーヒーカップを顔の近くに持ってきてみた。すると、馴染みのある香りが侑子の鼻腔をくすぐった。
「あっ、これ……」 「気付きました? さすが雹緋さん、いいデバイスを使ってるだけありますね!」
思わず侑子はコーヒーカップを晴彦にも渡した。晴彦もそのカップを顔に近付けると、若干驚いたような表情を見せた。
「リュミヌーブレンド……?」 「そうなんです! 今まではざっくりと珈琲の香りとしてしか再現できなかったんですけど、香料の配合を更に細かく設定できるプラグインを手に入れましてね! 試しに、リュミヌーブレンドを再現してみたんです! 雹緋さんとHALさんが使ってるVRデバイスって、確かHELIOXのでしたよね? あそこのはかなり香りの再現度高いって聞いたので、お二人に試してみて欲しくて!」 「え、すごいですね……ちょっとフルーティーなところまで再現されてるじゃないですか。これ、プラグインに課金しましたね?」 「いやぁ、それはいくらHALさん相手でも言えませんねぇ」
そう言ってなおもニヤニヤ笑っていたマチュだったが、コーヒーカップが榊の手に渡ったのを見て、静かに声をかけた。
「わかりますか?」 「いや……俺のデバイスはやっすいやつだからな。ただ珈琲の香りとしかわかんねえよ」 「まあでも、そんなもんなんですよ。VRなんて」
そのマチュの言葉に、侑子は一瞬、先日のマチュの視線を思い出した。いや、トークルームは外側からは見えないと、晴彦が言っていた。ならあの時、マチュと目が合う訳は無いのだ。 ふと、マチュの目線が少し泳いだように見えた。そしてふっと笑うと、頭を掻きながら次の言葉を続けた。
「俺、寝たきりなんですよね」
唐突なマチュの告白に、榊と晴彦の目線がコーヒーカップからマチュのほうへと戻される。マチュは若干小首を傾げて、榊がテーブルの上に戻したカップを手に取った。
「ちょいと事情があって、下半身が動かないんですよ。リハビリも兼ねてレイヤのアカウントを作ったんですけど、これがまた楽しかったんです。現実では動けなくても、デバイスを操作すればここでは動き回れる。だから俺が寝たきりだなんて誰一人気付かない。車椅子で動き回ってる時の、あの憐れむ視線がここでは全くなかったんですよ。居心地良くなっちゃいましてね」
マチュのこの話は、侑子は初耳だった。だが、言われてみるとマチュはあまりカウンターから出てくることもなかったし、そういう事情を鑑みればマチュが四六時中リュミヌー珈琲にログインしているのも頷ける話だった。
「だから……VRなんて、どんなにいいデバイス使ってても、結構解像度が荒いんですよね」 「なるほど? そちらさんはその解像度の荒さが居心地いいと。しかしそれだと、【良いデバイスを付けなきゃわからない繊細な香り】とは話が矛盾しませんかね?」
若干不貞腐れた様子の榊がそう言うと、マチュはニッと口角を上げた。考えてみると、爬虫類系獣人の笑う表情というのも客観的に見ればなかなか恐怖感を煽るものがある。侑子はマチュの人柄を知っているし、見慣れたアバターなのでなんとも思わないが。
「雹緋さん、ねこねさんには会いました?」 「そりゃ、いつも……」 「ああ、こっちじゃなくて。現実のねこねさんですよ」 「……!」
それは、目から鱗が落ちるような衝撃だった。思わず晴彦のほうに振り返ると、晴彦も唖然とした表情をしていた。 そうか、なぜそれに思い至らなかったのだろう。ログイン状態のまま残された遥奈のアバターは、まだレッドフラグになっていない。先日の依頼人の患者も、あの時点で生存はしていたのだ。
「外部の人間が口を出すのも差し出がましいかなって思ったんですけどね。ねこねさんの状況を知るには、実際に会うのが手っ取り早いんじゃないですかね? ……雹緋さんなら、それができるんじゃないですか?」 「ありがとうございます、マチュさん!」
そう言うや否や、侑子はレイヤをログアウトしていた。直前に榊の「ちょ、待って……!」という声が聞こえたような気がしたが、侑子はそれどころではなかった。 ばくばくと早なる心臓。侑子は震える手で手元に放り投げていたスマホを掴み、操作した。連絡先をソートしてスクロールする。なぜ失念していたのだろう。レイヤやSNSばかりで連絡を取り合っていたからだろうか。確か以前会いに行った時に教えてもらったのだ。遥奈の家の住所、そして電話番号。 しばらくして、侑子はその手を止めた。
「あった……」
そこに表示されていたのは、遥奈の連絡先だった。
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