『……は?』
あまりのことに、思わず声が漏れた。そのぐらい、侑子の目の前に広がる景色は様変わりしていた。 Nileの滝の側にある、遥奈のアバターに触れるまでは以前と変わらなかった。しかし、Netherlayerに入った途端その風景は以前と全く違うものになっていたのだ。 暗く、湿度さえ伝わってきそうな地下洞窟のようであった空間は姿を消し、キラキラと眩いばかりの様々な遊具がそこに広がっていた。侑子の胸に、なんとも言えないざわめきと焦燥感が広がる。まさか、間に合わなかったということなのか?
『侑子さん! 何かあったんですか!?』
侑子の目の前にウィンドウが現れて、晴彦の音声が聞こえてきた。
『晴彦……おかしい。Netherlayerの風景が全く違うものになっている。これは……遊園地……』 『遊園地?』
侑子はぐるりと周囲を見回してみる。楽しげで華やかな音楽が流れ、目の前ではメリーゴーランドがゆらゆらと回っている。轟音で風を切るような音を立て、頭上を横切っていくジェットコースター。遠くに見える観覧車。その風景はちょうど侑子たちが住む都市にある遊園地に似ているような気がしたが、どことなく重い空気と、わざとらしいぐらいの煌びやかさが、言い知れない異質さを醸し出していた。
『……注意して下さい。Netherlayerの状態が変質しているということは、レムコードが何か手を加えたか……状況が大きく変わっている可能性が高い。Eternum AIの件もありますし、少し周囲の様子を確認したら今日は一旦離脱しましょう』 『わかった』
そう言うと、ウィンドウは黄色い蝶の形に変化して侑子の肩に止まった。侑子は遊園地の中を、慎重に見て周りながら歩き始めた。 華やかに、楽しげに動き回る遊具たち。だが、メリーゴーランドの馬は浮き出た血管やぎょろりとした目が異様なほどリアルで、今にも動き出すのでは無いかと思うほどだ。集中して聞いていたらノイローゼになりそうなほど同じようなフレーズを繰り返す音楽は、若干ピッチもずれていて不快感を煽る。その合間に聞こえてくるギイギイと軋むような金属音と、テレビの砂嵐のような低いノイズ。侑子はその時、ここにきた時から感じていた違和感の正体に気付いた。どの遊具を見ても、その中に人が乗っていないのだ。まるで遊園地そのものだけが、意思を持って動いているかのようだった。
『ねこねさん!』
侑子は声を上げた。しかし、その声は遊園地の音楽にかき消されてしまう。その音楽は楽しげであるのに、侑子の声に合わせてノイズが混じった。それは侑子の声を届かせないように、という意図的なものを感じた。 侑子は小さく舌打ちした。Netherlayerにとって侑子は招かざる客、といったところか。しかし、侑子はこの中から遥奈を見つけ出さなくてはいけない。そうしなければ、遥奈は元より、存続が危うくなる命がもうひとつあるのだ。
『ねこねさん!!』
もう一度声を上げる。今度は明確に、侑子の声にノイズが被ってきた。 なるほど、どうあってもNetherlayerは侑子を阻むつもりらしい。それならそれで、こちらにもやり方があるというものだ。 侑子は手元で印を組み、そこに息を吹きかけた。
『晴彦、聞こえるか? 第五、第六チャクラ解放。【サードアイ】を使う』 『了解。ダイバー、チャクラを解放します。ヴィシュッダ、アージュナーの書き換え完了。【サードアイ】、準備できました』
晴彦からの音声が終わるとともに、肩の黄色い蝶が淡く光る。侑子の額にズズ、と若干の違和感が走った。額に第三の目が開く。侑子はそれに気付いて、自分の額にそっと触れた。
(なるほど。無意識のイメージを容易に具現化するのだな、ここでは)
侑子はそう結論付けると、ニッと笑って目を閉じた。白黒が逆転したような【サードアイ】の視界が広がる。瞑想の応用で意識を波のように広げていくイメージを作ると、その視界も同じように波打っていく。やがて侑子の意識の波の奥に、ひとつだけ異質として波紋を広げるものがあるのに気付いた。
『……見つけた!』
侑子はそう呟いて目を開けると、その波紋があった方向へ走り出した。迷いなく足を進める侑子の進路に、木の枝や風船が襲いかかってくる。侑子はそれを軽くかわして、なおも走り続けた。
『ちょぉっと、疲れちゃったかなぁ……』
脳内に、いつか夢の中で聞いた遥奈の声が響いてきた。それは、Netherlayerが侑子に聞かせているのか、侑子が心の中で思い出したことだったのか。だが、それでも侑子はその足を止めることはなかった。
(ごめん、ねこねさん。そうだったとしても……おれは)
侑子の目の前に、観覧車の乗り場が見えてきた。更に足を進めようとしたその時、侑子は突然足元が覚束なくなった。
『えっ』
唐突に、侑子の視界は黒い蝶で覆われた。一瞬、地面が揺らいだのだと思った。気がつくと侑子は地面にぶつかっていた。転んだのだと自覚するまで、少し時間がかかった。 なぜ、と思って体を起こし、足元を見ようとした時に違和感を感じた。自分の視野が変わっている。異様に大きく見える周囲の風景。恐る恐る額に触れたが、先ほど開いた第三の目は消えている。その代わり、自分の目に映ったその手のひらを見て、侑子は息を飲んだ。
『何……これ……』
侑子の手は、まるで子どものようにひと回り小さくなっていた。いや、手のひらだけではない。足も、顔も、体全てが、まるで小学生の頃と同じぐらいに小さくなっているのだ。ぐらりと、大きく世界が揺らぐ。視界の端で、黄色い蝶が掠れていく。紺の着物を着ていた自己イメージが崩れ、小さくなった体に纏っていたのは小学生の時に通っていた学校の制服だった。酷い目眩を起こした時のような不快感。徐々に風景が白くなっていき、侑子は浅い呼吸を繰り返して意識を失うことに抵抗した。
『侑子さ……何が……!』
どこかから晴彦の声がする。しかし、その声はノイズが混じってうまく聞き取れない。 ふと、背後に気配を感じて侑子は凍り付くように動きを止めた。その気配には覚えがあった。恐る恐る後ろを振り返ると、そこには死んだはずの父親が立っていて、じっとこちらを眺めていた。
『ははは。かわいいなぁ、侑子は』
そういって、カメラをこちらに向ける。違う、これは影だ。自身が見せている幻影に過ぎない。侑子はそうわかっていても、青ざめて身動きができなかった。カメラのシャッター音が聞こえる。この記憶はそうだ、遠い過去に水着の状態を撮られた時のものだ。子どもとはいえ、既に初潮を迎えた微妙な年頃。周りから見れば、微笑ましい家族の光景だったかもしれない。だからこそ余計に、侑子は抵抗し辛かったのだ。
『……撮らないで』
そう言ってバスタオルで体を隠しても、父親はカメラを向けることをやめなかった。何も聞き入れず、ひたすらカメラのシャッター音を響かせていた。
『撮らないでってば……!』
そう言って座り込む侑子に、父親はやっとカメラを向ける手を止めた。侑子がほっとしたのも束の間、父親は侑子に近付いて、その頬に触れた。ぞわり、と背筋が凍るような感覚を覚えた。
『侑子』
心臓がきゅっと閉まるような感覚。思わずその手を払いのけようとしたが、なんの感覚もなかった。その代わりに今度は、目の前に母親の背中が見えた。
『お母さん……』 『何もしないで、ご飯だけ食べて。お母さんは家政婦じゃないんだけどね?』
安堵したのも束の間、かけられた母親の言葉にどきりとした。慌てて手元の食器をまとめて流しにおき、洗剤とスポンジを手に取って洗い始める。隣の母親は何も言わず、ただ淡々と侑子が洗った食器を水で流していた。 ふと、嫌な気配がして母親のほうを向くと、母親の手には包丁が握られていた。その切先が向いているのは、自分のほうだった。 何が起きているのか、頭が処理し切れない。母親の目はこちらに向いているが、その表情からはその意図が感じられなかった。
『お前は、何を考えるのか、わからない』
母親はそう呟くと、そのまま何事も無かったかのように包丁を水で流し始めた。
気付くと、涙がとめどなく流れていた。目の前の風景は観覧車の入り口に戻っている。だが、侑子は一歩も動けなくなっていた。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
侑子はずっとそう呟くばかりだった。どこかから晴彦の声が聞こえてくる気がするが、頭の中に響き渡るのは両親の声と、遊園地のノイズばかりだった。 どれぐらいの時間そうしていたのだろう。侑子の涙で地面に小さな水溜りができた頃、一際盛大な音楽を鳴らして観覧車が動きを止めた。
『雹緋さん!』
侑子を呼ぶ声がした。侑子は尚も目から溢れる涙を拭うこともせず、ただ声のした方向へのろのろと顔を向けた。 そこには、ひと組の親子がいた。スーツを着た壮年の父親と、はにかみながら笑う少女が。
『ねこね……さん?』
侑子はなぜか、その少女が遥奈であると直感した。侑子に声をかけられた少女は、嬉しそうに笑って侑子のほうへ駆け寄った。
『雹緋さん、ごめんね。ここまでくるの、大変だったよね?』 『遥奈、その子は?』 『お父さん! この子はね、私のお友達!』 『へえ、そうか。いつも遥奈と仲良くしてくれて、ありがとう』
一見すると普通の親子の会話のように聞こえる。その言葉の端々に滲む微妙な違和感を、今の侑子には感じ取ることができなくなっていた。ただぼんやりと、遥奈とその父親のやりとりを眺めていた。
『雹緋さん、辛かった……? ごめんね、でもお父さんが、こうした方がいいって言うから』
遥奈の言葉は耳に入ってくるのだが、その意味が理解できない。涙はまだ止まらない。ただ、目の前で父親と楽しそうに笑い合う遥奈に対して、如何にも父親然とした男性に対して、どうして自分はそう在ることができなかったのかという疑問が、侑子の脳内にじわじわと侵食していた。 尚も涙を流す侑子に、遥奈は困ったような顔をしていた。父親はそんな遥奈を見て、遥奈にそっと何かを耳打ちした。遥奈はそれを聞いた瞬間目を輝かせて、満面の笑みで侑子のほうに手を伸ばした。
『ねえ……雹緋さん? 一緒に遊ぼう!』
一瞬、遥奈の背後にそびえる観覧車が、ぐにゃりと歪んで見えた。ずっと耳にこびりつくノイズ混じりの音楽。遥奈と男性の笑顔。
(この手を取れば……楽になれるのだろうか)
侑子の脳裏に一瞬そんな考えが浮かんだ。 その時、侑子の肩の黄色い蝶が小さく揺れた。それを見た遥奈の父親が一瞬、顔を歪めた。
『進藤……』
男の口がそう呟いた。侑子の耳に、その言葉だけが鮮明に聞き取れた。
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