『あなたは、妊娠しているんだ』
彼女の言葉が、頭から離れなかった。辛そうな表情で私の手を掴み、それでも私の目を真っ直ぐに見て彼女はそう言った。 ……知らない。そんなことはある訳がない。だって私は今子どもだ。私には関係の無いことだ。頭の中で彼女の言葉を打ち消していたが、気付くと私の手は自分の腹部を触っていた。 そして、そう考えれば納得できることもあった。ここに囚われる直前の自分は、普段から考えると有り得ないぐらいに気持ちが追い詰められていた。いつもなら気にしないような牛乳の賞味期限に苛立ったり、息子の声が癇に障ったり。前に生理がきたのはいつだった? あの時の自分が感情的になっていたり追い詰められていた理由が、妊娠によるホルモンバランスの変化だとしたら、説明が付くのではないか? 頭から離れない考えを振り払うように、そっと目を閉じる。違う。ここに来る前のことは、知らない。思い出さなくていい。今、私はお父さんと一緒にここにいる。それだけでいい。 ゆっくりと瞼を開けると、目の前の席にお父さんが座っている。目が合うと、お父さんはにこりと微笑んだ。つられて私も笑った。窓ガラスの割れた観覧車は、ぎいぎいと音を立てながらゆっくりと上へ登っていく。数匹の黒い蝶が、ゆらゆらと私たちの周りを漂っている。割れたガラスの外には、遊園地の景色が広がっていた。
『どうしたんだい? 遥奈』
お父さんが、優しい声で私にそう尋ねる。そう、目の前にいるのは私がずっとずっと欲しかったものだ。子どもの私に優しく接してくれる、本当のお父さん。
『……ううん、なんでもない』
だから、もう他には何もいらないはずだ。ここにいれば、お父さんとずっと一緒にいられる。
——死んだんだ……あの人は……佐々木さんは
不意に、あの時彼女のそばから聞こえてきた声を思い出した。 何故あの声は、お父さんの苗字を知っていたのだろう。あの声は誰? 死んだって……お父さんが死んでいるわけがない。だって、今目の前にこうして…… その時、周りに漂っていた蝶がお父さんの周りに集まってきた。それはまるで、お父さんの周りを囲む花のように見えた。
お父さんの周りを覆い尽くす沢山の花。白くて四角い棺。冷たい頬と固く閉ざされた瞼。
違う、違う、違う、違う! お父さんは死んでなんかいない。私の目の前にいる。そうでなければ……私が今、ここにいる理由がなくなってしまう。
『遥奈?』 『お父さん……』
お父さんの心配そうな声に応えようとしたその時、周りを漂っていた蝶が一匹、こちらに向かってきた。黒い羽をひらひらとはためかせて、ゆっくりと。 そしてその蝶は、私が無意識に手を当てていた腹部に止まると、スウっと私の腹の中に入り込んでいった。まるでそこに、何かがいることを私に伝えるように。
『あ……れ……?』
気付くと私は、止めどなく涙を流していた。 私は逃げていただけだ。昼夜問わず響き渡る甲高い子どもの泣き声から、噂好きな隣近所との人間関係から、探しても出てこない片方の靴下や毎日考えなければならない食事の献立から、それらをきちんとこなさなればならないという母親の呪縛から。 私が逃げている間、彼女はずっと私を探していたのだ。それこそ、こんなところに足を踏み入れてまで。彼女だけじゃない。きっと夫は今ものすごく苦労しているだろう。仕事もあるのに、子どもを残されてたった一人で……そう、あの時の私のように。 あの時から、一体どれくらいの時間が過ぎてしまったのだろう。残された私の体はいつまで妊娠に耐えられるのか? この胎に今もうひとつ命が宿っているとしたら——私は、帰らなくてはいけない。
『お父さん……ごめん。私、戻らなくちゃ』
その言葉を口にした私の視界は、さっきよりも高くなっていた。座っている父親とそう変わらない目線で、こちらを伺い見る父と目が合う。いつの間にか、私は子どもの姿から大人に戻っていた。
『ごめんね……思い出しちゃった。お父さんはもう死んでるんだ。私、お葬式に出たもの』
それを伝えるのは、少し躊躇した。目の前の父は、怒るでも悲しむでもなく、ただ変わらない優しい微笑みを浮かべていた。
『きっとあなたは、私の心が作り出した影。だけど……楽しかった。ありがと……』 『楽しかったなら、わざわざ戻る必要はないんだよ?』
突然、目の前の父親が私の手首を掴んだ。ゾク、という悪寒が背筋を走る。なおもギイギイと鳴る観覧車は、一番高いところへ到達しようとしていた。逃げられない。割れたガラスを背に、父は恍惚とした笑みで私の顔を覗き込む。その時、私は本能で悟った。違う、これは父であって父では無い。私の心の影ですら無い。私の記憶に残る、父にすごくよく似た何かだ。
『辛かったんだろう? 戻ったらまた同じことの繰り返しだ。人間なんて所詮、喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまう』
人間なんて、という言い方が妙に頭に引っかかった。まるで、目の前の父が人間ではないかのような。
『お前の母親も、そういう人間だったよ。何かにのめり込んではお前を振り回して……そして懲りずに、また別なものに手を伸ばす。可哀想に。犠牲になるのは遥奈、いつもお前だ』
いや、人間ではないことなど、とっくにわかっていた。それでも私は縋りたかったのだ。この、父のような何かに。
『お前が戻れば、しばらくは夫もお前を大事にするだろう。一年持つかな。1ヶ月か……1週間かもしれないね。人間は、忘れてしまうから』 『お父さん……やめて……』
わかっている。そんなことはわかっているのだ。そうだとしても、私は。
『私たちは、決して忘れることはない。ずっとずっとお前を大事にするよ。だってお前は、大事な……』 『やめて……!』
その先を聞きたくない、と思った。それを聞いてしまったら、私は戻れなくなってしまいそうだと。
『大事な、コア・リンク計画の要なのだから』 『!?』
目の前の父の口から発せられたのは、想像していたものとは違う耳慣れない言葉だった。何を、と聞き返そうとしたその瞬間、頭の中で声が響いた。
『よくやった、佐々木』
頭の中に響いたと思ったその言葉は、次の瞬間自分の口から発せられていた。訳がわからない。父親の周りに漂っていた蝶が、いや、観覧車の周りで飛んでいた全ての蝶が私に向かってくる。蝶が巻き起こす風で揺れる観覧車。立ち上がれないほど不安定な足元。蝶たちが狙っているのが私の腹部だと気付き、咄嗟に腹を庇おうとしたがその手は父に掴まれたままだった。夥しい数の蝶が次々と私の体の中に入っていった。 そして私は、徐々に視界が黒く霞み、やがて意識を失った。
********観覧車は、ゆっくりと下がり始めていた。意識を失った遥奈を、男はただ向かい側の席から眺めていた。男は、遥奈のほうに手をかざす。すると、男の手から黒い蝶が現れ、その蝶も遥奈の体の中に入っていった。 すると、遥奈は唐突に目を覚ました。開かれた瞼は、それまでの遥奈にはなかった鋭い眼光を湛えている。遥奈はそのまま視線だけ動かして男を見た。
『ご無沙汰しております、久嶋社長』
男はその視線を受けて、深く一礼した。久嶋と呼ばれた遥奈の体はゆっくりと起き上がる。そして口元を歪めると、徐々に笑い声が漏れ始めた。
『ふふ……ふふふ……あはは……』
その体は、徐々に崩れて変化していった。明るい髪色のボブヘアーは暗く長いものへ、動きやすいカジュアルな服装は黒いワンピースへと姿を変えていく。顔立ちは遥奈の面影を残しつつも、その見た目は打って変わって禍々しさを感じる雰囲気を醸し出していた。
『ご苦労だったわ、佐々木。随分とうまくいったものね?』 『お褒めに預かり光栄です』
遥奈、もとい久嶋と呼ばれたその女は、立ち上がり周りを見回す。ちょうど観覧車が一番下まで下り切ったところだった。佐々木と呼ばれた男は立ち上がり、久嶋の方へ手を差し伸べる。久嶋はニヤリと笑うと、佐々木の手を取り観覧車を降りた。 その瞬間、背後の観覧車は歪み、ノイズを伴って消えていった。観覧車だけではない。遊園地全体がまるでその役目を終えたかのように消え去った。
『さあ、これからよ……まだ始まったばかり。待っててね、真帆』
久嶋はそう呟くと、その腹部を愛おしそうに撫でさすった。
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