(バレた。さいあくだ)
母親に腕をつかまれたアイカはそう思った。無数に走る切り傷の跡。面倒なことになると思ったから、長袖で隠していたのに。
だけど、この人に私をとやかく言う権利があるだろうか?物心つく前から見ていた母の腕にも、切り傷の跡があるのをアイカは知っている。それが、自分でつけたものであるということも。
イライラする。「個性」という綺麗事のもとに、発達特性を隠しもしない支援級のクラスメイトも、通常級にいられなくなっていまさらこっちに入ってきたくせに「お前らとは違う」とか言い出しちゃう普通気取りのバカも、そんな私たちを内心バカにしてる通常級の奴らも。何もかもが、イライラする。
その気持ちをおさえるのに自分を傷付ける事の、なにがいけないっていうんだろう。
************
なんとなくすぐ家に帰りたくなくて、アイカはふらりと通学路の途中にある公園に立ち寄った。
スマホを持ってはいるが、この前のことがあってから親にロックをかけられてしまった。家に帰ってロックを外してもらわないと、操作できない。
すぐに帰りたくはないけど、帰らないとスマホを見れない。それもイライラした。アイカは公園の小さなブランコに座って、ただぼんやりと操作できないスマホをながめていた。
ふと、タバコの匂いがした。今どきアイカの父親ですらタバコなんて吸わない。いかにも心配してますなんて顔したオッサンに声をかけられたらやだな。アイカはそう思いながら顔を上げて周りを見回したが、公園には自分一人しかいなかった。どこから匂ってくるのだろう?
「……あ」
その答えは、上のほうにあった。公園の隣に建っているアパートの2階。その窓を開け放って、窓枠にもたれかかりながら煙を吐いているのは、アイカの想像していたようなオッサンではなく、長い髪を気だるそうにかき上げた黒いタンクトップ姿の女性だった。
「ハハ、見てたのバレちゃった」
そう言って彼女は笑うと、口元のピアスがキラリと光った。よく見ると耳にも、いくつものピアスが飾られている。
「ねえ、何してんの?」
「べ、別に……そ、そ、そっちは?」
「あたし? 見ての通りだよ、タバコ吸ってんの。こうしないと部屋が臭くなるって、同居人がうるさくてさ」
そう言って彼女はまたタバコを吸い込み、煙を吐き出した。目を細めて薄く笑いながらこちらを見ている。なんだろう、なんだかドキドキする。
「ねえ、そっち行っていい?」
「は?」
「いいでしょ? 今ヒマなんだ。ちょっと付き合ってよ」
「は、え、ちょっと……」
アイカのとまどいの声を聞きもせず、彼女は窓から引っ込むとしばらく間を開けて窓を閉めた。
あっけにとられたアイカは、手の中のスマホのことすら忘れていた。手からすべり落ちて砂の上に落ちたスマホをあわてて拾い上げ、砂をはらい落とし終わった頃、公園の正面からさっきの女性がやってきた。
先ほどのタンクトップの上からモノトーンの大柄なシャツをはおり、髪を軽くしばっている。下はゆったりとしたデニムのボトムズだった。
目を引いたのはその髪だった。わざとらしいぐらい真っ黒な髪はおそらく染めたものだろう。髪をひとつにしばったことで、もみあげから少し上まで剃り込みが入っているのがわかった。いわゆるツーブロックだ。
「おまたせ。隣、座ってもいい?」
アイカはすぐに言葉が出なかったが、かろうじてうなずくことはできた。彼女は笑って「あんがと!」と言うと、空いていた隣のブランコに座った。ふわりと香ってきたのは先ほどのタバコと、香水だろうか?
「えー? ブランコに乗るとかいつぶりだろ? 君……あー、なんての? 名前」
「……アイカ」
「アイカね。あたしイオリ。よろ」
「はぁ……」
やたらとドキドキして、気の抜けたような返事しかできない。顔を少しだけイオリのほうに向けると、タンクトップのすき間から胸の谷間が見えて、あわてて顔を正面に戻した。それはふくらみ始めた自分のものと比べると、かなり、大人を感じさせるものだった。
「アイカってさぁ、バンギャだったりする?」
「は?」
「カバンに付けてるストラップ、見覚えある」
アイカはイオリが指差したほうを見た。カバンには色々付けているが、その中でひときわ目立つ、真っ黒なストラップの事だとすぐにわかった。
「これ……ママからもらったんです。ママが好きなバンドの……」
「ママ!? ……あーでも世代的にそうか……えまって、アイカ何歳?」
「中1……」
「マ!? チュウイチっていうと……じゅう……」
「13」
「うっわマジかー。13年前って……それこそあたしも中学生か? 時間経つの早すぎわろた」
13年前が中学生というと、イオリは20代後半といったところだろうか。それよりは若く見えたので、アイカは意外そうな顔をした。
「あたしもそのバンド好きになったの親の影響だったからなー。じゃあアイカのママは大先輩だ。こんな身近に同志がいると思わなかったから嬉しくてさ、声かけちゃった」
そう言ってニカッと笑うイオリに、目の奥がチカチカするような感覚を覚えた。
「あの、じゃあママを紹介しましょうか……」
「あー、いいよいいよ……どした?」
イオリと話を続けたくて、母親の連絡先だけでもと思いスマホをいじろうとした時に、アイカはそのスマホがロックされていたことを思い出した。
「そうだった……スマホ使えないんだった」
「え?」
「親にパスワード変えられちゃって……使えないけど、GPSのために持ってろって」
「えー……それはダルいね……」
イオリはそうつぶやくと、シャツの胸ポケットから流れるようにタバコの箱を取り出した。そして一本咥えてライターを手にし、そこで何かに気付いたように気まずそうな顔をした。
「苦手?」
「あ、別に……」
「そう? ……んー、でもやめておくか。ジョウソウキョウイクに悪そうだし」
そう言って咥えたタバコを箱に戻したイオリは、ふとある一点を見つめて手を止めた。アイカはなんだろう、と思ったが、イオリの目線の先が自分の手首であることに気付いて青ざめた。
しまった、そう思って制服の袖を伸ばそうとしたが遅かった。イオリはブランコから立ち上がってこちらに向かってくる。揺れるブランコのチェーン。手からまたすべり落ちるスマホ。抵抗する間もなく掴まれた腕。イオリは無造作にアイカの制服の袖をまくった。いくつもの自傷跡があらわになった。
「これ……」
「何よ」
「自分でやったの?」
「……そう」
「……」
「何よ。アンタもやめろって言うの?」
イオリからの返答はない。なんだ、またか。みんなみんなやめろって言う。そんなことはよくないって言う。何も知らないくせに。私の気持ちも知らないくせに。
不意に、手首に柔らかい感触が当たった。イオリは、アイカの腕を両手で抱え込んでいた。手首に当たったのはイオリの胸の感触だった。アイカは驚いて口をぱくぱくさせていると、先ほどまで饒舌だったイオリの声が、掠れるような音で聞こえてきた。
「言わないよ……言わない……」
その声は、掠れているけど熱っぽくて、アイカはさっきまでの怒りを忘れ、ただその胸から伝わってくるイオリの心臓の音に顔が熱くなるのを感じた。
「……あたし、好きだよ。この傷跡」
そう言って、唐突にイオリが手首に口付けたので、アイカの顔はもう、爆発するんじゃないかと思うぐらいに熱くなっていた。
「だって、いろんなものと必死に戦ったショーコじゃん。自分を痛めつけることで、落ち着こうとしてるわけじゃん。すごく……なんて言えばいいんだろ? いじらしい? ……って思う」
「……いじらしい?」
アイカはその言葉の意味がわからずポカンとしていたが、イオリはアイカの手を開放して、砂の上に落ちたアイカのスマホを手に取った。そして、何やら操作しているようだった。
「おっ、ビンゴ……やったね」
「えっ?」
「アイカのママ、案外チョロいかも。パスワードわかったよ」
「えっ!? なになに!?」
「んー、どうしよっかなぁ。教えてあげようかなぁ、やめとこうかなぁ」
「えー、教えてよ!」
アイカがスマホを覗き込もうとするとイオリは背を向けて逃げる。また覗き込もうとして逃げられる。それを繰り返して、アイカとイオリは公園中を走り回っていた。
「ほい!」
突然、イオリがスマホをアイカに投げ渡した。アイカは慌てて受け止めたが、そのスマホは既にロック画面に戻ってしまっていた。
「ちょっと……!」
「よかったね! ペアレントコントロールは入ってないっぽいよ!」
「そうじゃなくて!」
「条件付けたげる! 毎週水曜日の夕方、またここにおいで。そしたらそのうちパス教えてあげるよ」
「本当?」
「ホントホント。あと、あたしのLINE入れておいたから!」
「……!」
その言葉に、アイカは思わずスマホをギュッと抱きしめた。イオリはいたずらっぽく笑うと、腕時計を見て途端に焦ったような顔をした。
「やべ! 仕事の準備しなくちゃ! アイカもそろそろ帰んないと、ママが心配するよー!」
そう言われて気付いた。既にあたりは暗くなり始めている。イオリは足早に公園から出ると、アイカに手を振りながらアパートの階段を駆け上っていった。
嵐のような出来事で、まるで夢を見ているようだった。ただ、アイカの手元にはスマホがある。家に帰ってロックを外してもらえばわかることだ。アイカはドキドキしたまま、家への帰り道を走り始めた。走らずにはいられなかった。
************
アイカは母親にスマホのロックを解除してもらうと、すぐさま自室に戻ってスマホを覗き込んだ。開いたLINEの一番上には、見慣れないアイコンと「イオ」の文字があった。その隣には通知数がすでに「3」と表示されている。
アイカはもどかしい手つきでそのトーク画面を開く。真っ先に目に入ったのは、可愛らしいキャラが手を振っているスタンプだった。
『イオリだよ! 今日はありがとね!』
『また次の水曜日にあおーね』
「イオリ……さん」
名前を口に出した瞬間、手首を抱え込まれた時のことを思い出してアイカはまた顔が熱くなった。あわてて返信を打とうとしたその時、母親の足音が聞こえてきた。
「アイカ、宿題やんなさいよ」
ドアの外から聞こえてきたその声に、アイカの気持ちは急速に冷めた。いつもこうだ。
しかしその時、アイカはふと思い出したことがあった。スマホを机の上に置いてドアを開くと、立ち去ろうとしていた母親が驚いたような顔でこちらを振り返っていた。
「びっくりした……どうしたの?」
「ママ、うちに国語辞典ってある?」
「あるけど……」
「どこ?」
「リビングの本棚。え、知らなかったの?」
母親の疑問には答えもせずに、アイカは母親を追い抜いてリビングの方に走って行った。アイランドキッチンのカウンターの下が本棚になっている。アイカはその本棚を、指を差して探していった。あった。一際分厚くて色褪せた国語辞典。アイカはその国語辞典を抜き取ると、ある言葉を探し始めた。
「なんて言ってたっけ……い……『い』だ!」
パラパラとページをめくり、『い』の並びを探していく。「硫黄」、違う。「遺憾」、違う。「いけず」、違う。「勇ましい」、違う……
やがてアイカは、あるページで手を止めた。アイカの指は、その中の一文をなぞっていた。
(いじらしい……弱いものが一所懸命に努める有様や心根が、いたいたしくあわれ……共感してかわいそうがるほど……)
アイカは文字をたどって、少しがっかりした。なんだ、同情か。そう思った時だった。
「……けなげで、可憐?」
「アイカ、勉強?」
後ろから母親に声をかけられて、アイカは心臓が飛び出るかと思うほどびっくりした。思わずあわてて国語辞典を閉じる。
「そ、そう。勉強に使うから、これ借りていい?」
「別にいいよ。ママが学生の時に使ってたやつだから、だいぶ古いけど」
「大丈夫。じゃあ借りるね」
アイカはそう言って、国語辞典を抱えるとまた走って部屋に戻った。部屋のドアを閉めると、アイカは国語辞典を抱えたまま、ドアにもたれかかって座り込んでしまった。
「……可憐」
かみしめるようにそうつぶやくと、また顔が赤くなっていくのがわかった。
(ああ、一体なんて返信すればいいんだろう!)
************
「あたし、バイセクシャルなんだよね」
イオリがそうポツリと呟いたのは、出会ってから4回目の水曜日だった。
「今一緒に暮らしてんのはオトコだけど、同性と付き合ってたこともあったよ」
その告白は、アイカにとっては複雑な気持ちになるものだった。もしかしたら自分のこともそういう対象として見てくれているのかも、と思う反面、この流れで「オトコと一緒に暮らしている」というのは、まぁ、そういうことだろう。アイカは内心とてもガッカリして、そしてそのガッカリしている自分にも驚いた。
じゃあ、私は。イオリのことをどういうふうに思ってるの?
「アイカは、好きな人とかいるの?」
「……もう別れちゃったけど、付き合った人はいる」
「え、マジ!?」
イオリは身を乗り出して食い付いてきた。ベンチに並んで座っているので、イオリの顔がめちゃくちゃ近くなる。またあの香水のような香りがふわりと香ってきて、アイカは少しドキドキした。
「あー……でも付き合ったっていうか……ぶっちゃけ何もしてないけど……」
「なんでなんで? つか、告白したの? されたの?」
「されたほう」
「うわー、クッソうらやま! え、同じ学校?」
「同じクラスの男子。OKしたけどなんか合わなくて、1週間ぐらいでもうやめよっかって」
「えー、なんかでもそれも青春だねー。いいなー。あたしが中学生の頃なんて、ただV系追っかけてる芋女だったよ」
「え、想像つかない」
「そんなことないでしょー! 超芋だよ! 今だって眉毛落としたら顔どこに置いてきたん?ってなるぐらい芋だから!」
そう言ってイオリはけらけらと笑った。だけどアイカには、本人が言うほどイオリがダサくは見えない。どちらかといえば、少し威圧感さえある。
「いいなぁ、アイカは可愛くて」
そう言って、イオリは笑いながらアイカの頭を撫でた。手がこちらに来た瞬間少しだけびっくりしたけど、不思議とイヤな気持ちにはならなかった。
「そんなこと……ないと思うけど……」
「んーん、可愛いよ。いっしょけんめ生きてて、すごい可愛い」
まただ。顔が熱くなる。さわさわと頭を撫でられる感触がくすぐったい。そういえば、頭を撫でられるなんていつぶりだろう。すごく小さい頃は、親が撫でてくれていたような気がするけど。
イオリは頭を撫でる手を降ろすと、その手でアイカの手首を掴んだ。アイカは抵抗しなかった。制服の袖がまくり上げられて、傷があらわになる。イオリはその傷を、頭を撫でている時と同じ優しい手つきでそっと撫でた。
「増えた?」
「……うん。学校にいると、どうしてもしんどくて」
「そっかぁ……学生のうちはどうしても、学校にいる時間が長いからね。そこがしんどいのは辛いねぇ」
「うん……」
少し、イオリの目がうるんでいるように見えた。傷を撫でるイオリの目は優しくて、まるで大切なものを触るようにアイカの傷に触れてくる。アイカはまるで、イオリの宝物になったような錯覚さえ感じた。
この時間が続けばいいのに、と思う反面、イオリが傷に触れたらもうこの時間はおしまい、というのもアイカは気付いていた。いつもイオリが傷に触れてくるのは、「もうすぐ仕事の時間の時」だったからだ。
そしてアイカの予測通り、イオリはベンチから立ち上がった。アイカが制服の袖を戻していると、イオリが思い出したように声をかけた。
「そうだ。来週はあたし、用事があるんだよね。だから、次はまた再来週ね」
「うん……」
アイカはとてもガッカリした。しばらくイオリに会えないのか、と思うと、憂鬱な気分にさえなった。
「じゃあね」と手を振るイオリを見送って、アイカはカバンを手に取った。日が沈み始めていて、空がオレンジ色に染まっていた。完全に暗くなる前に、家に帰らなければ。母親に怪しまれないように。
************
アイカは心の中で、ひとつ疑問に思っていることがあった。
(イオリさんが私に会う目的は……私? それとも……)
そこまで考えて、アイカは頭を振った。気にしても仕方がない。それに、今日はどのみちイオリには会えないのだ。
とぼとぼと帰路を歩いていると、いつもの公園が近付いてきた。アイカは無意識に公園をのぞきこんでイオリがいないか探したが、小学生が二人、滑り台のまわりで遊んでいるだけだった。一瞬小学生の一人と目が合って、アイカは慌てて目をそらした。
「いるわけないか……」
その時、一台の車がアイカの後ろから走ってきて、目の前でアパートの駐車場に入っていった。一瞬、運転席に座っているのがイオリだったように見えて、アイカは思わず車の後を追った。
車から出てきたのは、まさしくイオリだった。アイカは声をかけようとしたが、イオリの姿を見て息を飲んだ。
全身黒。ファッションではない、あれは喪服だ。イオリはアイカの存在に気付いたようで、少し寂しそうに笑うと、軽く手を振ってアパートの階段を登っていった。
見てはいけないものを見てしまった気がした。アイカはすぐに走り出していた。走って、走って、でもすぐに息切れして立ち止まって、また走って。家にたどり着いた時には、過呼吸なんじゃないかと思うぐらい呼吸が苦しくなっていた。
母親からスマホのロックを外してもらっても、アイカはそのスマホをのぞき込む気にならなかった。それでも何かで気持ちを紛らわせたくて、ベッドに横になりながらただなんとなく国語辞典をパラパラとながめていた。
ふと、その中のあるページでアイカの手が止まった。ある言葉の一文に、強く塗りつぶされている部分が合った。その言葉は、「自傷」だった。
塗りつぶしているのは、ペンなどではなく鉛筆のようだった。アイカはベッドから降りて机の上のペンケースを手に取り、その中から消しゴムを出してベッドに戻った。塗りつぶされている部分を消していく。若干文字は薄れたが、読めないほどではなかった。
「自傷……自分で自分のからだをわざと傷つけること……異常な興奮によって自己の身体を咬んで傷つける行動……」
アイカは国語辞典の最後のページをめくってみる。そこには母の名前が書いてあった。母親は一体、何を思ってこの言葉を塗りつぶしたのだろうか。
「異常な興奮……」
アイカは意を決して、スマホを手に取った。イオリからのLINEを示す通知が入っていた。アイカはそれをタップしてイオリとのトーク画面を開いた。
『さっきはごめんね💦用事があったんだ』
『アイカ、キズ増やしてない?』
『確認したい。画像送れる?』
「……やっぱ、そうなのかな」
アイカの中の疑問が、少し真実に近付いた気がした。
【イオリが求めているのは、アイカ自身ではなく、アイカの傷跡なのではないか】
「アイカー、お風呂入りなー!」
アイカは母親の声で我に帰る。慌ててスマホを閉じようとしたが、その時ある考えがアイカの中に浮かんだ。
(そうだ……イオリさんはバイだって言ってた。そうすれば……どっちなのかわかるかも)
先ほど国語辞典で見た、「異常な興奮」という単語が頭から離れない。アイカは心臓がバクバクと鳴っているのを自覚した。
「アイカー?」
「はーい、今行くー」
アイカはできるだけ、いつもの声色で母親に返事をする。そして引き出しから着替えを取ると、スマホをその中に包み込んで隠し、部屋のドアを開けた。
************
「……あたしが、なんで怒ってるのかわかる?」
次の水曜日、公園のベンチで待ち構えていたイオリはアイカが来てもしばらく何も話さず、ただタバコを吸っていた。ここしばらくLINEの返信もなかった。ただぼう然とアイカが立ち尽くしていると、ようやくイオリが口を開いてそう言った。
「画像の……こと……?」
アイカが恐る恐る尋ねると、イオリはアイカの方をちらっと見て、ため息と一緒に煙を吐き出した。
「あたしは、キズの画像を送ってって言ったんだよ。あれは……違うでしょ」
アイカは言葉が出てこなかった。今日、イオリから何かしらの反応があるとは思ったのだが、怒られるとは思っていなかったのだ。
「ああいうのは、中学生がしていいことじゃないよ。あたしが危ない大人で、あの画像を周りに見せたり送ったりする人間だったらどうするの」
イオリはそう言うと、突然アイカの手からスマホをひったくった。そしてちょいちょいと操作すると、またアイカの方に差し出してきた。
「消しなさい。あの画像」
そのイオリの目つきは鋭く、異様なまでの重圧があった。アイカは泣きそうになりながら、画像フォルダを開いた。その中には、アイカが入浴中に撮影した画像が数枚並んでいた。それらを選択して削除ボタンを押す。そしてイオリの方を見たが、イオリの表情はまだ厳しいままだった。
「LINEの送信履歴も消しなさい。あの画像だけでいいから」
アイカは言われた通り、イオリとのLINEを開いて上の方にスワイプし、イオリに送った画像を削除した。
手が震える。それは、はっきりとした拒絶に感じた。
「ふ……ひっく……」
涙があふれてきて止まらない。視界の端で、イオリがタバコを吸うのをやめて、火を消すのが見えた。
「わ……私は……そういう対象として……見れませんか……?」
泣きながら、口をついて出てきたのはそんな言葉だった。
しばらく沈黙が続いた。その沈黙は、そのままアイカの問いに対しての答えであるように感じた。
「……ごめんね」
イオリのその言葉と同時に、タバコと香水の匂いがただよってきた。気付くとアイカは立ち上がったイオリに強く抱きしめられていた。
「あたしも、ばかだった。アイカがそんなに思い詰めてたの、気付かなかった」
息が、できない。思いの外強いイオリの腕の力に、アイカは胸が苦しくなっていた。イオリはそっとアイカから離れると、アイカの頭をぽんぽんと撫でた。そして、ベンチの隣に座るように促した。
アイカは恐る恐るイオリの隣に座った。まだ涙は止まらない。イオリはポケットからくしゃくしゃのハンカチを出してアイカに差し出した。アイカは無言でそのハンカチを手に取ると、顔をつたい落ちる涙を拭き取ってそのまま目を押さえた。
「こないだ、あたし喪服だったでしょ? 元カノの命日だったの」
イオリが話し始めた。アイカは内心でものすごくびっくりしていたが、イオリがあまりにもなんでもないことのように話し始めたので、アイカもなんとなく、まるでなんでもないような顔をして、涙を拭いながらイオリの話に耳をかたむけた。
「一緒に住んでたんだけど……あたしが出かけたスキに、ODしてた。あたしは恋人だったけど、女だったし、籍も入れられなくて……だから、救急車を呼んだけど、一緒についていけなかった。……そしたら、何もわからないうちに、いつの間にかお葬式が終わってたよ」
「そんな……」
「家族じゃ、ないからね」
そう言ってイオリは、寂しそうに笑った。その笑い方は、まるでこの前車の前で見た、あの時の笑い方にそっくりだった。
「アイカみたいに、自分で自分を傷付けちゃう子だったんだ……だからかなぁ。アイカの傷跡を見たら、なんか思い出しちゃって」
アイカは無意識に、自分の手首をギュッと握りしめた。
アイカの想像は、半分当たっていた。イオリが見ていたのは傷跡だった。そしてその傷跡を通じて見ていたのは……それさえアイカではなく、亡くなった恋人だったのだ。
「ちょっと、待ってて」
イオリはそう言って、足早に自分の部屋に戻っていった。
アイカは魂が抜けたような気分だった。そして浅はかな自分の行動を恥じた。また涙があふれてくる。この気持ちの名前をアイカは知らない。
強いて言うなら、これも失恋なのだろうか。
「お待たせ!」
そう言って、イオリが戻ってきた。アイカは涙を拭いて顔を上げる。するとイオリは、何かをアイカの方に差し出していた。
「ピアッサー……?」
「これで、あたしの耳にピアス開けて」
「えっ?」
アイカは驚いてイオリの顔を見上げる。イオリは少し辛そうに、でも満面の笑みでアイカにピアッサーを握らせた。
「ごめんだけど、アイカの気持ちには応えられない。でもあたし、アイカのこと絶対忘れない。忘れたくない。だから……あたしの体に残してよ。アイカのことをさ」
手の中のピアッサーは白く、ピアスの先端が鋭く光っていた。イオリはアイカの隣に座ると、髪をかき上げて耳を差し出した。
「こっちの耳の方が、まだ開けるとこ残ってるんじゃないかな? どこでもいーよ、アイカの好きなとこに!」
アイカは、グッとピアッサーを握りしめた。不思議と手は震えなかった。ピアッサーを構えて、イオリの耳に触れる。すっと指でなぞると、イオリが一瞬震えた、ような気がした。
「ここで……いい?」
「うん、やっちゃって!」
アイカは思わず目をつぶって、グッと指に力を入れた。ガシャンという無機質な軽い音が、公園に響き渡ったような気がした。
その音と同時に淡い恋心が終わったのだと、アイカは思わざるを得なかった。
************
「アイカ……傷跡、減った?」
母親からそう声をかけられて、アイカはぽかんとした。
「言われてみれば……最近切ってないかも」
「そうじゃない? 新しい傷跡、見ないもの」
少しホッとしたような母親の表情に、やや微妙な気持ちになった。別に母親を喜ばせるためにやめたわけではない。本当に、気付いたらしばらく切ってなかった。それだけの話なのだけど。
アイカは改めて自分の手首を見た。以前つけた傷跡はまだ残っているものもあるし、きれいに治っているものもある。だが言われてみれば、確かに減ったように見えた。
そこでアイカはふと、あることを思い出した。
「そうだ、ママ。私のスマホのパスワード、アレでいいの?」
「アレで……って、まさかわかったの!?」
「ママの好きなバンドのボーカルの誕生日でしょ?」
「ちょっとヤダー! それじゃ制限にならないじゃない! 変えるから貸しなさい!」
「えー、今はいいじゃん。家の中では9時まで使っていいんでしょ? どうせ後で渡すんだからその時変えてよ」
アイカはそう言って、まだ何かぼやいている母親を尻目にLINEを眺めていた。
あの日から、イオリのメッセージは入らない。最後にパスワードも教えてもらったから、水曜日に公園に行く必要も無くなってしまった。
一度だけ、公園でアパートの2階の窓を見上げてしばらく待ってみた事もあった。だが、イオリが姿を見せるどころか、窓が開く事すら一度も無かった。
まるで、あれは全て夢だったかのように。全部無かった出来事であったかのように。
でも、夢ではないことはアイカが一番よくわかっている。その証拠に、アイカの机の引き出しにはあの時のピアッサーが残っていた。
「……あれ?」
LINEの一番上に、見覚えのあるアイコンが表示されていた。以前1週間だけ交際した、あの男子だった。
『やっぱり、やり直したい』
『あきらめたくない』
『話がしたい』
「アイカ、何笑ってるの?」
「え?」
気付くと、アイカの口角は上がっていたらしい。顔を触ってそれを自覚すると、なんだか顔が熱くなってきたような気がした。
「なんでもない! 部屋に戻る!」
そう言って、アイカはスマホを握りしめて部屋に駆け戻った。さて、なんて返信しよう? そんなことを考えながら。
終
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