書庫

極楽堂鉱石薬店奇譚

月長石の秘め事

琥珀の蜜 二話

 かたかたと水晶すいしょう焜炉こんろの上の薬缶が沸騰する音で、彼女は目を覚ました。書生のような襟無しシャツの上から、男物の藍染あいぞめの着物と羽織をまとい、角帯かくおびを締め、短髪に中折れ帽を被った彼女は、一見すれば男性のようだった。

「おっと」

 寝起きの掠れた声を上げ、慌てて火を止めた。薬缶の湯を茶碗に注ぎ込む。白い陶器の茶碗の中に入れておいたのは月長石。石は注がれた湯に流されて、茶碗の釉薬ゆうやく模様の上をころころと遊び回る。

 茶碗に口をつけると、鉱石茶の蒸気がふわりと顔を覆った。

 彼女はうたた寝をしていた時に見ていた夢を思い返していた。それは過去の記憶。彼女−−極楽院奈落ごくらくいんならくがこの店を引き継いだ時に起こった事だった。

 極楽堂鉱石薬店は元々祖父が立ち上げた石薬屋で、跡を継ぐ気のなかった両親に代わり、祖父に懐いていた奈落が鉱石薬を学んで跡を継いだ。石に対して鼻が効くという「鉱石体質」から、同じ体質である石薬屋の祖父と共に過ごす事が多く、店に出る祖父を見ていたり時には手伝いをしていたりと、知識を得る機会は多かった。両親は鉱石体質ではなかったし、奈落のたった一人の妹も、そこまで強く鉱石体質があるわけではなかった。女学校を卒業すると奈落は跡を継ぐ意思を祖父に伝え、実家を離れて極楽堂に住み込みで働き始めた。鉱石体質に理解のなかった父は、祖父の事も奈落の事も煙たく感じていたのだろう、これ幸いと奈落を勘当してしまった。人脈も幅広く様々な事業に手を出していたらしい祖父は、これを期に店を奈落に譲る判断をしたようだ。

 鉱石から精製する薬を扱うのが、この店のような石薬屋だ。鉱石薬の種類は多岐に渡り、粉末にして飲用するもの、溶かした際に発生する蒸気を吸引するもの、誘導体を皮膚に塗布してその上に直接石を乗せる灸などがある。ただ、普通の薬がそうであるように鉱石薬にも禁忌はある。例えば吸引法のひとつである真珠煙管は、真珠に薬液を滴下しその蒸気を煙管で吸引するものであるが、不眠・精神安定に効果がある反面、身体の未発達な未成年の服用は禁止されている。だが、服用に用いる硝子煙管と真珠の美しさから女学生の服用が後を絶たず、社会問題となっている一面もあった。

 いつの世も、婦女子は見目麗しいものに心を囚われるものだ。

 見目麗しい、のかどうか自分ではわからないが、女学生時代の奈落は一部の下級生に慕われていた。女学生の間では「エス」という、上級生と下級生の間で結ばれる姉妹を模した親密な関係が流行している。奈落の「妹」を望む下級生も存在していた。だが、奈落はついぞ誰ともエスの関係を結ぶことは無かった。当時既に店を継ぐと心に決めていたため、勉学で忙しかったせいもある。だが、本当の理由は。

 月長石が茶碗の中できらきらと、青い光彩を放つ。月のように淡い光を放つそれは、奈落の中の苦い記憶を呼び起こす。

「やれやれ。鉱石茶に月長石を選んだのは失敗か。香りは立つが、人を選ぶな」

 奈落は独りごちて、茶碗を茶托に戻した。日は傾き始め、店の看板の影を長く伸ばしている。今日はもう店を閉めようか、そんな事を考えていた矢先だった。

「御免下さいまし」

 ドアベルが鳴り響くと同時に、店の引き戸がからからと音を立てる。奈落がそちらへ目を向けると、幼い少女を連れた和装の女性が入口から顔を覗かせていた。

「もし、こちらのお店はまだ開いてらっしゃいますでしょうか?」

「いらっしゃいませ。はい、開いておりますよ。何か急ぎのごようですか?」

 奈落は来客に声をかけた。だが、客は奈落の方をじっと見つめ、驚いたように口元を押さえていた。

「……かあ様?」

 女性に手を引かれた少女が、母を見上げる。だが女性はそれに反応せず、ようやく押し出すように声を絞った。

「奈落、先輩?」

 先輩と声をかけられた奈落は、彼女の面影から記憶を辿る。長い髪は結い上げられて、藍色松葉の小紋が落ち着いた印象を与えていたが、その顔には覚えがあった。

「……千代ちよさん」

 鉱石茶の甘い香りが店の中に立ち込めて、奈落と女性の間に漂う。少女は少し不安げに、母親にしがみついて奈落を伺っていた。

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