VRゴーグルを置いた晴彦の手元に、侑子は淹れてきた珈琲を置いた。
「飲むだろ?」
侑子の着ている着物の香と共に、珈琲の香りが晴彦の鼻腔をくすぐった。晴彦が顔を上げると、侑子の涼やかな一重の奥にある深い黒褐色の目がこちらに向けられていた。その長い髪は大振りの簪で器用にまとめられていて、珈琲を手にしている左手には煙水晶のような大きい石が入った指輪と、銀色に光るややいかつい指輪が重ねて付けられていた。 侑子は普段から着物を着る人間であった。今日は外出しないので男物の浴衣に兵児帯という「ラフなほう」の着物姿であるらしい(飽くまで本人曰く、だが)。そう言えば侑子と初めて出会った仕事の打ち合わせの時も、大きな菊柄の派手な着物を着ていてひときわ目を引いていたのを晴彦は思い出した。
「ありがとう。ずっとリュミヌーにいたから、珈琲が飲みたかったんだ」
時間はちょうど昼前だった。と言っても、二人ともカーテンを開けて生活するタイプではないので、時計がそう指し示しているだけの話なのだが。だが、カーテンの隙間から見えるベランダに干された二人分の洗濯物を見て、晴彦は妙に「結婚」という生活感を実感した。 婚姻届を提出するのとほぼ同時期に、晴彦は侑子と暮らし始めた。元々晴彦が住んでいたアパートが少し広めだっとこともあり、今は侑子が晴彦のアパートに転がり込んでいる形だ。しかし、落ち着いたら二人で暮らせるようなところに移ったほうが良いだろうと、侑子の荷物で逼迫した部屋の中を見ながら晴彦はそう思った。まだ開けていない段ボールも重ねられた状態であちこちに鎮座している。
「……仕事は?」 「14時から占いの方の仕事が入っている」 「あれ、じゃあ別に急いでログアウトすることなかったじゃない」
晴彦の言葉に、侑子は目線を泳がせた。挙動不審がそのまま顔に出ていて面白いと、晴彦は思った。
「それは、その……なんだ。あの、アレ……ち、昼食! 昼食を作る時間もあるじゃないか!」 「ははは」
侑子の言葉に、思わず晴彦は苦笑いした。そんな晴彦の様子に、侑子は呆気に取られているようだった。
「別に……そんなに律儀に奥さんをしなくてもいいんだよ? 一応俺だって、一人で暮らしていたんだからそれなりの生活力はあるんだし、そもそもで俺たちが結婚した理由は、そういうんじゃないだろう?」
晴彦の言葉に対して、侑子の表情の変化は見られなかった。ただ、自身のカップを握る手に、若干力が入っている。晴彦自身、彼女を傷付けることを言った自覚はあった。
「……例え、そうだとしても。社会的にも親族の目から見ても、おれたちは夫婦というものになったんだ。一応、妻らしいことをしなくてはならんだろう」 「真面目だなぁ」
晴彦は、手元に置かれた珈琲を手に取って口を付けた。リュミヌー珈琲から買った豆であろう。苦味とコクのバランスからして、恐らくいつものタンザニアだ。
「それに、これはお前の目的を果たすために、おれにうまい汁を吸わせるための結婚だろう?」
侑子はそう言いながら、自分のコーヒーカップをテーブルの上に置いた。そして唐突に、晴彦の胸ぐらを掴みあげた。
「それなら、おれがしたくてしている妻らしいことに対して、お前が口を出す権利は無いと思うが」
侑子の言葉を聞いて、晴彦はなるほど、と思った。一理ある。自身の珈琲が溢れていないことを確認すると、晴彦も自分のコーヒーカップをテーブルの上に置いた。
「それもそうだね。でも、頑張り過ぎて参ってしまわないようにだけ、気を付けてもらえる?」 「……ふん」
侑子はそう吐き捨てるように漏らすと、晴彦から手を離した。晴彦は胸元を整えると、キッチンに向かおうとする侑子の背中を目で追った。 そう、そんなことで参ってしまわれても困るのだ。晴彦が侑子に求めているのは、そんな役割では無いのだから。
ふと、晴彦はカレンダーに目を向けた。上に大きく「20X7年4月」と書かれたカレンダーの、今日は二週目の日曜日だった。
「そういえば、お義父さんの命日、今日じゃなかった?」
晴彦が声をかけると、侑子はその足を止めた。
「……そうだったか?」 「そうだったか、って……君の父親の話だよ?」
侑子の声は怒りも焦りもなく、ただ本当に不意を突かれて呆気にとられた様子だった。
「ああ……忘れていた。よく覚えているな」 「ご挨拶のときに、お義母さんからお伺いしたよ」 「ふうん。まぁ今更法要をするわけでも無いし、墓も遠いしな。命日とは言っても、特に何もすることは無いよ」
侑子は心底興味無さそうにそう呟くと、今度こそキッチンへ行ってしまった。
侑子の父親が亡くなったのは、もう十年以上前のことだと晴彦は聞いた。アルコール依存性の末、心不全で亡くなったらしい。当時、一番父親のことを甲斐甲斐しく面倒見ていたのは侑子だと聞いていたのだが、この様子を見るに恐らくは自分のキャパシティを超えて対応していたのだろう。そもそもで、彼女の母親は当時侑子を連れて別居していたと聞くし、彼女の兄弟もすでに親元を離れ県外で暮らしていた。弱っている相手を見離せない侑子の性格からして、自ら父親を背負い込んでしまったのは容易に想像できる。そしてそれは、相当な負担であったことも。そんな状況では、父親が逝去したとしても彼女に何の感慨が残ったであろう。それから十年以上の年月は、彼女から父親という存在の余韻すら消し去ってしまったようだ。侑子自身の精神を保つためには、やむを得なかったのだろう。 侑子も晴彦も既に三十代だ。親族が他界するのも、珍しい話ではなくなってきた。そんな年齢で二人が結婚したのは、どちらの親族も目から鱗だったと見える。両家の顔合わせの際の何とも言えない空気は、今でも忘れられない。
キッチンから、トン、トンと小気味良い包丁の音が聞こえてきた。侑子は元々料理を作るのが趣味であるらしい。晴彦だけが暮らしていた時はそっけなかったキッチンに、見たこともないスパイスが並んだ。侑子に時間のある時は手の込んだ手料理が食卓に並ぶようになったことは、彼女と結婚したことのメリットかもしれない。 晴彦は再び珈琲に口を付けた。その左手の薬指には、侑子が付けていたものと同じデザインの指輪が光っていた。
********
「……なので、無理に相手に合わせるということを続けていると、貴女自身の魅力が半減してしまいます。初めは難しいかもしれませんが、コンビニなどで自分の好きなお菓子を選ぶといった小さいところから、自分自身の居心地の良さを探していくと良いかもしれませんね」
足首まで隠れるような黒いゴシックなワンピースに身を包み、頭には黒いヴェールを被った如何にも「占い師」といった風貌をした侑子のアバターは、目の前のVtuber少女風アバター(所謂、量産型と言われるような外見だった)にそう伝えると、目を細めて妖艶に微笑んだ。 そこは、侑子が副業で営んでいる占いのスペースだった。レンガ作りのような壁紙の上に並んで不規則に動く歯車たち。棚には謎の本のようなものと、鉱石や草花が詰められた薬瓶が並んでいる。一見して異世界をモチーフにした雑貨屋のようでもあるが、空中に浮かぶレトロな地球儀や飛び回る小さなドラゴン、何より、目を凝らすと細部に見える解像度の境目が、ここがVR世界であることを物語っている。 侑子は空中に並べたタロットカードに手を触れた。カードはスッと消えて、彼女の今の状態を示す一枚、「星」の正位置だけが残った。
「ありがとうございます、雹緋さん」
相談の始め頃よりは、彼女の声色は明るくなっていた。どうやら占いの内容にご満足頂けたらしい。時間も頃合いとなり、侑子は支払いの手続きを促した。量産型少女は侑子が差し出したコードに軽く触れた。軽快な音が鳴り響き、会計がつつがなく終了した事を告げた。 再三の礼を告げる少女のログアウトを見届けると、侑子は目を閉じて椅子に深く座り直した。
(今回もまた、こちらは何の手がかりもなし、か……)
晴彦にどう報告したらいいものかと思いながら、侑子は再び瞼を開いた。目の前の「星」のカードを指で弾いて消すと、手元にあった煙管を手にとって口を付ける。合成されたウッディーノートが香った。侑子はそれを深く吸い込むと、長い溜息をつくように息を吐き出す。スペース内に煙のエフェクトが広がり、やがて消えていった。
レイヤ内で不可思議な現象が起こると噂されるようになったのは、去年の暮れあたりからだっただろうか。ログインされていないアカウントのアバターが動き回っていたという目撃談や、泣きながら追いかけてくるAI搭載型のNPCの話、スクリーンショットを撮るとそこに居ないはずの蝶が映り込む……などなど、まるで心霊現象のようにまことしやかに囁かれている。SNSで絶えず話題が上がるそれは、一見してバグや、まだ公開されていない仕様のようにも思えたが、レイヤを運営するレムコード社からは未だ何の見解も出されていない。 晴彦から出された結婚の条件のひとつとして、その「不可思議現象の情報を集める」というものがあった。だから侑子はわざわざスペースを設けて、占いという体で情報収集を行っているのだが、現状はあまり芳しくない。今日もただの恋愛相談だった。レイヤ内で知り合った相手だと聞いていたので、多少は何かあるかもと期待していたのだが。
侑子は指先を動かして、ログアウトのウィンドウを目の前に立ち上げた。まるで魔法陣にも見えるそのウィンドウの中央に手をかざすと、侑子のアバターは一瞬でノイズとなりその空間から消え去っていった。同時に、彼女が占いをしていたスペースの入口札の字が自動で「open」から「close」に変形し、魔女の館のような小さなスペース自体の彩度と透過率が下がって、店主がログアウト状態である事をわかりやすく視認させる形になっていった。 その入口札に小さな蝶の影が差した。その影はしばし揺らめいた後、唐突なノイズと共に消えていった。だが、それを目撃したユーザーは誰一人としていなかった。
シェアして下さると心の励みになります
Tweet