『……妙だぞ。ダイバーの反応が座標から消失した』 「えっ」
榊の言葉に、晴彦は思わず侑子の方に目を向けた。こちらから見る侑子の様子は変化したように見えない。しかし、共鳴装置の色は青に変化していた。
「共鳴装置、ブルーです」 『マジか、一旦中止した方がいいかもしれないぞ。青になったってことは、本体とエーテル体の繋がりが薄くなってきてるってこった。進藤、嫁さんを呼び戻せるか……』 「待って下さい」
晴彦は榊の言葉を遮って、モニターを食い入るように眺めた。画面に映っているのはAetherLinkに噛ませているプログラムと現状のステータスだったが、それを目で追う晴彦には別のものが視えていた。
(消失してはいるが……まだ、そこに居る)
それは、晴彦の直感だった。すぐに晴彦はキーボードを叩いて、即席でプログラムを書き換えていた。多分、この1行を書き換えるだけでいい。
「榊さん、今送ったやつをインポートして下さい」 『ハァ? なんだコレ、何も変わって……』
しかし、そこで榊の言葉は止まった。モニターに映った榊は左拳を口元に当てて、何かを食い入るように眺めていた。
『……マジか。コレで、いけると思うのか?』 「いけます。恐らく侑子さんはそこに居る」 『ええい、やるだけやってみるぞ! 進藤、嫁さんの共鳴装置から目を離すなよ! 黒になる前に呼び戻せ、いいな!』 「承知しました」
********
視界が元に戻ったのか、侑子はすぐには判断できなかった。しかし、感覚が慣れてくるにつれて、周囲の輪郭が朧げに見え始めた。それによって、自分が先ほどとは違う場所——果たしてそこが「場所」と表現するのが相応しいのかはともかく——にいるのだということを認識することができた。 妙な風景だった。目を凝らすと先ほどの病室が見えるので、座標が変わったわけでは無さそうだ。しかし、まるでそこに別なフィルムを重ねているように、暗い洞窟のような風景が重なって見えている。視線を変えると、その二重の風景が動いて見えた。それだけで頭がおかしくなりそうだった。 はたと、先ほどベッドに横たわっていたアバターのことを思い出した。そうだ、あの人物と接触した瞬間に飛ばされたのだ。会話の内容から察するに、あれが風吹医師が言っていた患者なのであろう。ターミナルケアを受けながら、ログアウトできなくなってしまった患者。今ここで、一番「死」に近い存在。
そして侑子は、体感的に察していた。ここが、バーチャルな世界でありながら今の自分の状態と親和性の高い、霊的な位相であることを。
侑子は一瞬だけ意識を閉ざした。普段瞑想している時の感覚を自分の中で探っていた。自分の頭上から順にチャクラを整えていく感覚を思い出しながら、侑子は自分の体の境界を具体的にイメージしていく。
(……よし)
再び侑子は視界にフォーカスする。すると、重なっていたフィルムが減り、洞窟のような風景だけが目の前に広がった。 ふと、手元に振動を感じた。左手の薬指、現実世界で共鳴装置を付けている場所だ。侑子は自分の手元に目を向けると、そこに厳つい指輪を付けた自分の手が見えた。ひとまず、自己イメージをこの世界に投影することは成功したらしい。侑子は晴彦が自分の現状を把握したことを察した。
(せいぜいそこから見守っていることだな)
侑子は集中が途切れないようにして、周囲を見回した。目の前に一際暗い洞があるのがわかる。近付くと、そこは地下牢のような鉄格子が嵌められていた。奥から唸り声のような振動が響いてくる。目を凝らすと、その奥にうずくまっていたのは先ほどの患者のアバターだった。
『大丈夫ですか?』
声を出したつもりだったが、その自分の声すら唸り声と同じ振動に変わっていた。侑子は眉をひそめたが、相手には届いていたようだ。その目線がこちらに向けられたのがわかった。
『なぜ、こんなところに』
侑子はめげずに「声」をかけ続けた。中のアバターは、ゆっくりと腕を動かして侑子の方を指差した。いや、その指が指し示していたのは、鉄格子にかけられた厳つい錠前のほうだった。 侑子はその錠前に手を伸ばした。が、触れた瞬間電気のような衝撃が走って思わず手を離した。
『未練ナド、無イト思ッテイタ』
衝撃により集中が途切れたのか、一瞬見えなくなりそうになった手を動かしていると、唸り声に混じって明確な言葉が侑子の耳に入ってきた。
『自分デ思ウヨリモ、私ハアサマシカッタヨウダ……コンナ事ニナッテモ……マダ、コノ世ニ留マリタイト……』 『当たり前です』
思わず、侑子は患者の声に応えていた。
『未練のない人間などいませんよ。生きれば生きるほど、他者と関われば関わるほど、しがらみなど増えていくものです』 『……』 『ただ、ここがこの世かどうかは、甚だ疑問ですけど……ね!』
侑子は、両手で錠前をしっかり握り締めた。先ほどと同じ、電撃のようなものが侑子の体を駆け巡る。しかし、今度は侑子はその手を離さなかった。
(第五チャクラから第七チャクラ、解放)
それぞれのチャクラの役割は伝達と増幅、そして接続。その判断は直感的なものだった。侑子の左手の共鳴装置が光る。その瞬間、侑子の視界にモニターのようなものが現れた。その中では、晴彦が慌てふためいた様子でこちらを覗き込んでいるのが見えた。伝わるかどうか判断する間もなく、侑子は叫んでいた。
『晴彦!【鍵】が必要だ!』
モニターの中の晴彦はしばらく訝しがる顔をしていたが、やがてニヤリと笑いサムズアップした。そのまま、晴彦はラップトップの前でしばらく何か打ち込み始めた。 電撃はまだ続いている。侑子は唖然とした様子でこちらを見ている患者に、笑いかけて声をかけた。
『帰りましょう。会いたい人たちがいるんですよね?』 『……アイツラガ会イタイカハ、ワカラナイ』 『どうして?』 『迷惑ヲ、カケテシマッタ。老イボレノ面倒ナド……』
その一言に、侑子はふっと苦笑いをした。父親の顔を思い出す。あの男にも、そんな殊勝な考えがあっただろうか。
『人間同士なんて、迷惑かけてなんぼですよ。少なくともおれは、めちゃくちゃ面倒でしたけど、父親を看取ったことを後悔はしていない』
つま先の感覚が朧げになってきた。集中が切れそうだ。
(頼む、晴彦。早く……!)
その時、目の前のモニターがブツンと消失した。不味い、チャクラが乱れた。共鳴装置の光が消える。焦った侑子は錠前を握る手に力が入ったが、その時、手の中に何か異質なものがあることに気付いた。
『……でかした、晴彦!!』
手の中にあったのは鍵だった。侑子はその鍵を鍵穴に差し込むと、その瞬間から電撃と鉄格子そのものが消失した。 ふう、と一息つくと、侑子はその奥にいた患者に手を差し伸ばした。
『これでもう、あなたを縛るものは何もありません。帰れますよ?』
そう言って、侑子はにっと笑って見せた。
『心残りがあったんでしょう?』
侑子の言葉に、心なしか相手も笑っているように見えた。
『……コレデ最期ニヒト目、妻ノ顔ガ見ラレル……アリガトウ』
患者は侑子の方にその手を伸ばす。指先が触れ合ったその瞬間、患者のアバターは侑子の目の前からスッと消え去った。 侑子は一瞬焦ったが、患者がいた場所に一枚のタロットカードが残されていたのを見て、彼があるべき場所に戻ったことを察した。残されたカードは「運命の輪」だった。
(転機の訪れ、現状を打破してここから飛び立つ……か)
侑子がそのカードに指先を近付けると、カードは端の方から砕けるように消えていった。 さて、と侑子が後ろを振り返った瞬間、彼女の視界を掠めるものがあった。だいぶ集中力が保てなくなってきて、チャクラの乱れから最初の視界に戻ったのかとも思ったが、どうも違う。注意深くあたりを見回すと、先ほど鉄格子があった場所に一匹の黒い蝶がひらめいていた。
『蝶……?』
侑子がその蝶に近付くと、蝶は更に移動していく。まるでどこかへと誘導しているようだった。侑子はやや意識がフラフラし始めていたが、蝶を目で追うことを自分の意識で止められない。一歩、また一歩と蝶に誘われて奥へ進んでいく。 侑子は、その蝶に見覚えがあるような気がしていた。まるで自ら発光しているかのように、黒い鱗粉を輝かせている。どこで見たのだろう、そこまで遠い昔のことではない。侑子は思い出そうとしたが、頭の奥がチリチリして思考を遮っていた。 侑子はおぼつかない足取りながらも、蝶を追いかけて前に進んでいるはずだった。しかし何故か蝶の早さに追いつけない。呼吸が荒くなっていくのを感じる。思い出せ、あの蝶のことを。侑子は明朗にならない意識を奮い立たせながら、それでも少しずつ足を進めた。
『クソ……どこへ行くんだ……』
ゆっくりと飛んでいるように見える蝶は、侑子を嘲笑うように洞窟の奥へと飛び去っていく。
『待て……』
侑子がそう言って手を伸ばした瞬間、その蝶の奥に人影を見つけた。女性だ。しかも、そのシルエットはどこか既視感があった。
『!!!』
背中に掲げられた大剣、ふわりと揺れる長い黒髪。それは、彼女を彷彿とさせる姿だった。侑子が思わず走り出そうとしたその瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。侑子の意識はそのまま、再びブラックアウトしていった。
********
「……さん、侑子さん!!」
唐突に目を覚ますと、物凄い形相をした晴彦が目の前にいた。そこで、自分の意識が肉体に戻ったことに気付いた。 顔面に物凄い湿度を感じて手で触れると、顔中にびちゃりとした脂汗をかいている。呼吸の仕方を思い出せず、ゼーヒューと物凄い音を立てながら口をパクパクさせた。視界に入った左手の共鳴装置が、澱んだ濃紺になっているのが見えた。それは目の前で徐々に、緑色へと変化し始めているようだった。
『おい、大丈夫なのか!? 共鳴装置は黒になりかけていたし、ED装置から送られてきてたバイタル値もだいぶ危なかったぞ!? 嫁さんの意識は戻ったのか? おい、晴彦!』 「意識は取り戻したように見えます。侑子さん、今どこにいるかわかる?」
晴彦にそう声をかけられて、侑子は視線だけを動かして周囲を見回した。薄暗い部屋。香ばしい珈琲豆の匂い。まだ、あの位相で見た洞窟のような風景の感覚が残っているが、間違いなく現実に戻ってきている。
「リュミヌー……奥の部屋……」
侑子が絞り出すようにそう声を出すと、晴彦は侑子が座っているAetherLinkの縁に手をかけて、腰が抜けたように床に座り込んでしまった。
「よかっ…………たぁ…………!」
そんな晴彦を見て、侑子は意外だな、と思っていた。恐らく自分は危ない状況だったようだが、胸ぐらを掴まれても飄々としていたこの男が、侑子のことでそんなに焦るとは思っていなかった。 重怠い腕を持ち上げて、服の袖でぐいと顔の汗を拭いた。目を閉じると、まだあの位相の風景が見えるように思える。そして、侑子ははたと思い出した。見覚えのある黒い蝶。あれは、侑子のアバターがつけている手甲のアクセサリーにあしらわれた蝶に似ていた。侑子のものは赤い蝶。そして、黒い蝶を付けていたのは。
「ねこねさん……」
侑子の言葉に、晴彦は頭だけを持ち上げてこちらを見た。侑子はその晴彦に目線を合わせて、明確に言った。
「あれは、ねこねさんだ。あの位相に……ねこねさんがいる……?」
訝しがる晴彦の瞳に、まだ顔色の悪い侑子の顔が映っている。侑子はその視界の中に、まだあの黒い蝶が妖しく鱗粉を撒きながら飛んでいるように思えた。
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