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LAYER :: 魂の階層

SEEK // 深層探索

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 侑子の寝息が微かに響く寝室。晴彦はベッドの上で手元のタブレットを覗き込みつつ、侑子の寝息にそっと聞き耳を立てる。これまでの侑子の睡眠状況の統計——飽くまでも晴彦の主観によるものだが——と比較すると、今日は幾分すんなりと眠りに落ちたようである。晴彦は状況からそう結論付けると、妻の呼吸音を動作ログのように監視することから離れ、タブレットの中のニュース記事に意識を戻した。榊から「もしかすると近日中にレムコード社からレイヤ関連の発表があるかもしれない」と言われたのが引っかかっているのだが、どのニュースサイトを見ても該当しそうな記事は見当たらない。大型掲示板のレイヤ関連の話題をまとめたブログ記事や、レイヤ実況系のVTuberによるショート動画までチェックしたが、既に晴彦が把握している話題や与太話ばかりだったし、酷いものはいかにもなAI生成のでっちあげだった。  暗い室内の中で、タブレット画面の光だけが仄かに浮かんでいる。晴彦の指輪がその光に冷たく照らされていた。晴彦は、ふとその指輪を購入した経緯を思い出した。侑子は結婚式も婚約指輪も望まなかった。結局、侑子の共鳴値を普段から観察する必要性も感じたので共鳴装置レゾネーターを指輪に加工し婚約指輪代わりに渡した。だが、結婚指輪だけは侑子の執着に近いこだわりがあったようで、選ぶのに難儀したのだ。晴彦はふっと笑って、ちらりと侑子のほうに目線を向けた。  睡眠導入剤を服用している侑子だが、一度寝てしまうとその眠りは深く、ちょっとしたことでは目を覚まさない。穏やかな寝息と少ない寝返りを見るに、今日は薬がよく効いているのだろう。朝も目覚めがよい方ではないらしく、アラームが鳴ってすぐはいつも朦朧としているし、記憶も曖昧であるらしい。侑子の意識がはっきりしてくるまでの間に二人分の珈琲を淹れるのは晴彦の役目になりつつあった。  奇妙な夫婦関係である自覚はある。しかし、晴彦は別に侑子を拒絶するつもりはない。晴彦は恋愛願望も性的欲求も一般的な男性に比べたら薄い方であったが、それでも無い訳ではない。結婚という形を取った以上、それなりの営みも必要ならば応えるつもりであった。しかし、それを拒絶しているのは意外にも侑子の方なのである。  共寝に抵抗がある、というところまでは理解できた。それまで交際期間と言えるものもなく、いきなり籍を入れるところからだったので当然と言えば当然だ。ちょうど晴彦が使用していたベッドが年季だったこともあり、組み合わせタイプの夫婦ベッドを購入した。ふたつのシングルベッドにもなるし、合わせれば大きなベッドになるものだ。しかし、そのベッドは今、別々に使用されている。  夫婦の営みを試みようとしなかったわけではない。晴彦なりに、そういう雰囲気を作ってみたことは何度かある。しかし、侑子はそれをのらりくらりと躱した。明確に拒否された訳では無いが、彼女はそういった雰囲気を巧みに避けていた。そういう時の侑子は視線が泳いでいたし、纏う空気も若干張り詰めている。まるで、何かに怯えているような——。無理強いしてこの関係が破綻しては元も子も無い。晴彦はそう判断し、今は侑子を静観している。  先日のダイブの時のことを晴彦は思い出す。AetherLinkに身を委ねて、やや緊張しながらも覚悟を決めた彼女の表情は、晴彦の胸を射抜くものがあった。その場では何も言わなかったが、晴彦は自分の気持ちが若干揺れ動いているのを感じていた。  晴彦はタブレット端末から目線を外すように、頭を持ち上げて一瞬目を閉じる。そして自分の左側のベッドに横になっている侑子の方にその目を向けた。

「何が、『見返りを期待してる』だか……」

 晴彦はふっと鼻で笑って、タブレットの画面を落とした。枕元の充電ケーブルにタブレット端末を接続すると、自分もベッドに身を横たえた。  そういえば。彼女のエーテル体が初めて晴彦の元に現れたのもこんな夜だったと、晴彦は天井を眺めながら思った。近くて遠い自分の妻。その不思議な距離感すら、晴彦は愉しんでいる節があった。

********

 夢の中で、これは夢だと気付くことを明晰夢と言っただろうか。  侑子はぼんやりとそんなことを考えていた。侑子の視界に広がっていたのが、先日ダイブ中に飛ばされたNetherlayerネザーレイヤの風景だったからだ。ここしばらく続いている同じような夢。地下牢のような鉄格子、黒い蝶が舞う洞窟。これが侑子の明晰夢であるのか、実際に侑子の意識がNetherlayerネザーレイヤに訪れているのか、その判断は付かなかったが、いつも夢に見るのは同じシーンであることから、おそらくは自分の夢であるのだろうと侑子は思っていた。  侑子はあの時、蝶が導く方向へ進んでいった。その先にねこねのアバターの影を見て、そして夢はいつもそこで終わる。まるで、侑子の侵入を拒むかのように。

(……だと、するなら)

 侑子は不意に足を止めた。おそらくこのまま進めば、またいつものようにこの夢から弾き出されてしまうのだろう。これが明晰夢とわかっているのなら、いつもと違う行動を取ってみるのも一興ではなかろうか。  そのまま周囲を注意深く見回してみる。突然立ち止まった侑子に、蝶は戸惑うようにひらひらと飛び回っていた。侑子と一定の距離を保ったまま蝶もしばらくそこに留まっていたが、やがて諦めるようにそのまま奥へと飛び去っていった。

(さて、このあとどうなる?)

 と思ったのも束の間。次の瞬間、侑子は背筋が凍り付いた。奥の方から夥しい数の小さな黒い影がこちらへ向かって飛んできた。それはぞっとするほど美しい蝶の群れだった。

『う……!』

 あまりの数に、侑子は腕で顔を覆って眉を顰めた。侑子の両脇を蝶たちは通り過ぎていく。蝶のはためきが風となって侑子の髪をなびかせるように感じた。無数の羽音がノイズのように聴覚を覆う。かなり不快な数の暴力だった。  やがて、蝶の数が減り、再び静寂が訪れた。侑子はそっと、蝶が通り過ぎた自分の背後に顔を向けた。果たしてそこには、蝶が群れを成したひとつの塊があった。やがてその塊の中から、人影が徐々に像を結んでいくのがわかった。

『ねこねさ……!』

 その名を呼ぼうとして、侑子はその人影がねこねのものでは無いことに気付いた。いや、正確にいえばねこねではある。だがそれは馴染みのあるアバターの姿ではなく、一度だけ目にしたことがある現実のねこね——川崎遥奈の姿だった。少し明るい髪色のボブヘアー。子どもを追いかけやすそうなデニムパンツとカットソーは、侑子のイメージが反映されているのだろうか。侑子が好感を持っていた愛嬌のある一重の瞳はしかし、蝶の影を宿すかのように暗く濁っていた。

『なんで来ちゃったの』

 遥奈がゆらりと動いて、口を開いた。その声はオンライン通話で聞き馴染んだいつもの彼女のものであったが、その声色は哀しさと諦念を滲ませていた。

『……そりゃあ探すに決まってるだろう』 『雹緋ハクヒさんはそういうところがダメなのよ。また無茶したんでしょ』 『今はおれのことはどうでもいい!』

 侑子は衝動的に遥奈に向かって手を差し出した。しかし遥奈を掴もうとした手のひらは、ただ蝶の中を通り過ぎただけだった。

『ごめんね。そっとしておいて欲しいんだ』 『無理だよ、一緒に戻ろう』

 自分でも驚くほどに、その声は悲痛なものになっていた。遥奈は暗い瞳のまま曖昧に笑って、小さく首を振った。

『ちょぉっと、疲れちゃったかなぁ……』

 その呟きと共に、遥奈を形作っていた蝶は一斉に飛び去り散り散りになっていった。まるで侑子を拒絶するかのように。

『……お父……さ……ん』

 最後に小さく、ただ確かに、遥奈の声はそう囁いていた。

********

 混濁する意識の中、微かな珈琲の匂いが鼻腔をくすぐった。侑子はそれで朝の訪れと、自分の目が覚めたことの両方を汲み取った。  侑子は必死に、夢の内容を反芻していた。目が覚めてすぐは夢を覚えていても、しばらくすると忘れてしまうことが多い。この夢は、これだけは忘れてはいけない。侑子はそう思って、自分の中で夢の詳細を明確な言葉にしようとしていた。

『ちょぉっと、疲れちゃったかなぁ』

 この言葉だけは、まだ侑子の耳に明確に残っていた。  あれが、あの夢がNetherlayerネザーレイヤに囚われたねこね……遥奈のものであるとしたら、彼女は相当に危うい状態だ。濁った目と、吐露された弱音。遥奈は愚痴を言う事はあっても、滅多にあんな事を言うようなタイプではなかった。こちらの事を案じてはいても侑子の手を取る事はない頑なな意思は、完全な拒絶であった。  そして、呟かれた『お父さん』という言葉。そういえば、彼女から母親の話を聞く事はあっても、父親についての詳しい話は聞いた事が無かった。  侑子は深くため息を吐いて、カーテンの隙間から外を覗き込んだ。朝の日差しが侑子の意識をやや明瞭にしていく。侑子たちが住むアパートから少し離れたところが小学生の通学路になっているようで、甲高い子どもの声が遠くから聞こえてきた。侑子はふと、一度だけ会った事がある遥奈の子どもに想いを馳せた。母親がこんな状況の今、まだ未就学児のあの男の子はどうしているのだろう。侑子は自身の兄弟の子どもたちと接した事はあるが、子どもを持ちたいと思った事がない。それは、自身の精神的な余裕の無さゆえだった。だから、子を産み育てている遥奈のことは単純に尊敬していたし、若干の羨望さえあった。  起きてすぐの日光は覚醒を促すとは言うが、正直なところ侑子は煩わしいと思った。ベッドを照らす日差しをカーテンで遮る。リビングのほうからコーヒーメーカーのアラームが聞こえてきた。晴彦がセットした珈琲が出来上がったのだろう。侑子はのそりとベッドから降りて、晴彦が居るであろうリビングに向かった。

「晴彦、朝食は何にする?」

 侑子の想像通りリビングのテーブルに着いていた晴彦はしかし、手にしていたタブレットに目線を落としたまま返事を返さなかった。晴彦の反応がワンテンポ遅いのはいつものことだ。侑子は特に意にも介さず、コーヒーメーカーの抽出完了のライトを確認すると、テーブルに置いてあった二人分のカップに珈琲を注いだ。  侑子が珈琲の入ったカップを前に置くと、晴彦はようやく口を開いた。

「まずいことになった」

 晴彦の低い声が、まだ夢の残滓を纏う侑子の耳に届く。侑子は晴彦の方に目を向けた。晴彦の目線はタブレットに向かったまま、その顔色は青褪めている。侑子の中の沈着冷静な晴彦のイメージからは、およそ想像の付かない表情だった。  眉を顰める侑子に、晴彦は手元のタブレットを差し出してきた。画面に映し出されているのはネットニュースの記事。そのタイトルは「遺族へのグリーフケアになり得るか。レイヤ運営のレムコード社、故人アカウントAI化【Eternum AIエターナム・エーアイ】を発表」と表示されていた。

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