淡い期待を持っていたのだ。子どもを育てていれば、だんだん過去の嫌な記憶も押し流されていくのではないかと。 実際、乳児期はそうだった。手のかかる赤ん坊に振り回される日々は微笑ましくも忙しく、良くも悪くも自分のことなど後回しで子どもにかかりっきりになり、何も思い出す余裕などなかった。 だけど、子どもが少し成長して、ある程度自我が出てくるようになると、また別な——それは、私にとってかなり厄介な問題が出てきた。いわゆる、イヤイヤ期だ。子どもの自我が成長してきて、感情のコントロールがうまくいかない、そんな時期。人間の情緒を育てる上で大事な時期であることはわかっている。ただし、知識として、だ。 昨日喜んで食べたコーンを、次の日には料理に入っていただけで1時間泣き喚く。そんな日々が続く。それにひとつひとつ対応していると、どうにも私は不可解で、理不尽な感情に襲われるのだ。「なぜお前は、そんな身勝手が許されるのか」と。 私はいつの間にか、自分の子どもに私自身の幼い頃を重ねて見てしまっていたのだ。それは子どもが成長するにつれて、だんだん頻度が高くなっていった。私は親から許されなかったことを、きつく制限されたことを、自由に破っていく自分の子ども。それは時として、憎しみさえ感じる程だった。 そこで、私は初めて気付いたのだ。私は子育てに向いていない。致命的に向いていないのだ。 しかし、子どもはもうそこに存在してしまっている。もう後戻りはできない。私はこの子を育てるしかないのだ。どんなに向いていなくても。どんなに、この子が妬ましくても。
その日は、夫は仕事だった。私は休みだったが、何も伝えず保育園を利用した。子どもと離れて、一人になれる時間が欲しかった。 けたたましく喚く子どもがいないだけで、家の中は嘘のようにしんと静まり返っていた。それでも、散らかった玩具や壁に貼られたシールが、確かに子どもがそこに存在していることを主張している。 最初はのろのろと部屋を片付けていたが、ふと、VRデバイスが目に入った。少しだけのつもりで、そのデバイスを手に取る。若干震える手でデバイスを頭に装着し、レイヤに入ろうとしたその時、一瞬だけ黒い蝶が視界を覆ったような気がした。
『結局、夫は何をしてくれた?』
突然、声が聞こえてきた。平日の日中である、ログインしたフィールドにはあまり人はいない。こちらに向けて話しかけているようなアバターも見当たらなかった。聞こえてくるのは、ただ、自分がいるフィールドにある滝の音だけ。
『子どもを抱えて苦しんでいる間、誰が何をしてくれた?』
また、聞こえてきた。誰かの声、というよりも、ボーカロイドに喋らせているような合成音声にも聞こえる。若干ノイズの混じったそれは、ヘッドセットを通しているはずなのに、頭に直接響いてきているようにも感じた。
『夫の親にも、ましてや自分の親になんかもっと頼れない。自分が苦しんでいても、子どもは関係なく癇癪を起こす。そうやって、子どもだけが正しく成長していく。自分は、そんなふうに育っていないのに』 「やめて……」
思わずその声に返答していた。声が聞こえる度に、フィールドの映像が微かに乱れる。それが実際、レイヤにバグが発生してるのか、それとも自分だけにそう見えているのか、私にはわからなくなっていた。
『最初から、あなたは結婚して子どもを持ったことさえ、分不相応だったのでは? 必死で良き母親のフリをしていたって、そんな普通の幸せを掴めるほど、胸を張って人に説明できる生き方だった?』 「やめて……!」 『ねえ、遥奈』 「やめて!!」
思わず、うずくまって声を張り上げる。幸い、周囲に他のアバターはおらず、こちらの方を見ているものは誰もいなかった。ただ、滝の音だけが周囲に響き渡っている。だが、私はもうそんなことはどうでもよかった。このおかしな声から逃れたくてデバイスを外そうとした、その時だった。
『こっちへ』
その声で顔を上げると、そこには見覚えのある姿のアバターがいた。スーツを来た男性。見上げた先にあったその顔には、VR世界のアバターとは思えないほどリアルな皺が刻まれている。それはまるで、遠い遠い記憶のあの人が、そのまま歳を取ったような。 思わず、その男性アバターの差し出した手を取った。気持ちが一瞬で和らぐ。泣きそうだった。ああ、なんで。なんで今更、私の前にあなたが。 その瞬間、私の意識は途絶えた。
それからずっと、この暗くてじめじめしたところにいる。ここは信じられないほど静かで、煩わしいことなど何も無い。たったそれだけの事が、私にとっては救いだった。 つまり、私は逃げてしまったのだ。自分の子どもと対峙することから。忙しない現実から。そんな私には似合いの場所だ。 ひとつだけ懸念があるとすれば、時々感じる彼女の気配だった。レイヤの表層とどこか地続きであるらしいこの場所から、私のアバターを通して彼女の気配を感じる事があった。それはもう、何度も何度も。いい加減諦めればいいのに、と思ったが、彼女は諦めるどころか、この場所に足を踏み入れさえした。私は怖かった。彼女に連れ戻されるのが。またあの現実に戻るのが、怖くて仕方がないのだ。 意識がぼんやりとしていると、自分の体の形さえ維持できないような場所だった。長くここにいるうちに、朦朧としている時間が長くなってきていて、自分が曖昧になっているのがわかった。自分の体の影になっている部分から暗闇に溶けていくようだったし、だんだん自分の名前さえおぼろげになっていく。いつか、この空間に私の意識が溶けてしまうのかもしれない。それはそれで、本望だと思った。 ふと、私の体の溶けた一部が、蝶の形をしていることに気付いた。闇に溶けて霧のようになっていた部分に目を凝らすと、ふわふわと漂う黒い蝶になっていたのだ。その蝶は少しずつ私から離れていった。私は別段追いかけるでもなく、ただ蝶を目で追っていたのだが、その蝶が向かう先に小さな人影を見つけた。
(雹緋さん……?)
一瞬そう思って身構えたが、よく見ると違っていた。男性の人影、その姿には見覚えがあった。
『……お、とう……さん』
言葉の出し方を思い出すように、口を開く。そうだ。あそこにいるのは、あの時手を差し伸べてくれたのは、私の本当のお父さんだ。
『遥奈』
お父さんの声が届く。胸が苦しくなるほどに懐かしい声。私の本当の父親。母の最初の夫である人。一緒にいたのは小学校に上がるか上がらないかぐらいの頃までだったが、その声は鮮明に覚えていた。
『遥奈、やっと会えた……』
その声が耳に届くと共に、私はその場から立ち上がっていた。急いで、急いでその人影の元へ走る。きらきらと視界の端に映るメリーゴーランド。父親の後ろに高くそびえる観覧車。覚えている、これは2年生の時だ。新しい父親と出かけていた母に内緒で連れてこられた遊園地。私の中の唯一子どもらしい記憶。 しかし、私の足はもう少しでその人に届くところまできて、止まってしまった。
『どうした、遥奈』 『行けない。お父さん、私、行けないよ……』
私の脳裏によぎっていたのは、その後にあった事だった。前の夫と出かけた娘を、母は許さなかった。雨が降り始めた夜中に外に放り出されて、食事すら与えられなかった。酷い空腹を抱えて、空に向かって口を開け、顔に打ち付ける雨水を飲んだ。泥臭い雨水の味は大人になっても忘れる事ができないほどだった。濡れた服は小さな体から容赦なく体温を奪っていく。ごめんなさい、ごめんなさいとドアを叩いても、鍵は固く閉まったままだった。窓から漏れ聞こえるテレビの音は、わざとらしい笑い声を無慈悲に響かせている。家族から見放された絶望と、酷い空腹と、寒さや疲労感……全てが小さな体に相まって、だんだん動けなくなっていった。 結局、見兼ねた新しい父が家の中に入れてくれたのだ。雑菌まみれの雨水を飲んだ私は、安心して横になる暇もなく腹痛に見舞われた。その間も、母が私の体調を案じる事は無かった。ただ冷ややかな目で、私を見るだけだった。 だから、ダメなのだ。会ってはいけない。どんなに焦がれても。一緒に乗った観覧車から見た雄大な景色、ぐるぐる回るコーヒーカップの遠心力、楽しげな音楽にのせてゆらゆらと動くメリーゴーランド……それらがどんなに楽しかったとしても。買ってもらったキャラメルの香りのポップコーンが、今まで食べたどんなものより美味しかったとしても。 私は生きるために、新しい父の手を取るしか無かったのだ。
『遥奈……』
青ざめて立ちすくむ私を見て、その人はこちらへ歩み寄ってきた。ダメだ、近付いてはいけない。そう思うのに、私の足は動かなかった。
『ごめんな。辛い思いをさせてしまって』
その人にふわりと抱き寄せられて、涙が溢れた。ああ、どんなにこうして欲しいと願ったことか。そして、何度その気持ちを自分自身で否定してきたことか。
『大丈夫、お母さんはここまで来ることはできない。だから、何も心配しなくていい』 『でも……』 『無理して戻らなくていいんだ。遥奈は充分頑張った……えらかったね』
そう言ってその人は、私の頭をぽんぽんと撫でた。温度は感じないけれど、大きな手。あの頃感じていた父親の大きさ。その時、私は自分があの頃の子どもに戻っているのを自覚した。頑なになっていた胸の奥の何かが、溶けていくような気がした。
『さあ、一緒に遊ぼうか。何に乗る?』
そう言って、父は私の方に手を差し伸べた。俯いていた顔を上げると、キラキラと輝く遊園地が目の前に広がっていた。楽しげな音楽、風船を配る着ぐるみのキャラクター、遠くから聞こえる沢山の笑い声、つぶらな瞳をしたメリーゴーランドの馬、ゆっくりと回る観覧車。あの時の、胸の高鳴りが蘇る。気付くと私は、父のその手に自分の手を重ねていた。
『最初はね、メリーゴーランド!』
小さな、細い私の腕。そこには、私が自分で傷付けた躊躇の痕など微塵もなく、ただその先に私と手を繋いだ父の手がある。自然と笑みが溢れた。ただただ、父と手を繋げることが、この上なく嬉しかった。
そうだ、あれは夢だったんだ。夢だったということにしてしまおう。母に家から締め出された事も、思春期に一緒に暮らしていた三番目の父の視線も、子どもの夜泣きで何度も起こされた事も——最後に見た、棺の中の父の姿も。
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