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LAYER :: 魂の階層

ECHO // 応答

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 このところ、ずっとぐったりしている侑子の事を、晴彦は口には出さなかったが気にかけていた。  直接の原因は以前の過剰なダイブにあると思うのだが、どうもそれだけではないように感じる。もちろん、Netherlayerネザーレイヤへのダイブがどれだけ彼女の体に負担をかけているかは未知数だ。ただ、ダイブを止めてからもうひと月は経っている。それなのに侑子は今朝もソファで横になってしんどそうにしていたし、なんとかパソコンの前に向かっていても、ぼんやりとして仕事の手が止まる事が増えているようだった。  心当たりがあるとすれば、先日の川崎遥奈を見舞った時だろう。これまではどんなわずかな情報も、侑子なりに事細かに共有してくれていたのだが、あの時の事については侑子の口は重かった。何も言わないわけではないのだが、その話題は侑子の瞳を暗く濁らせているのが見てとれたので、晴彦もその話を侑子に振るのは気が引けるようになっていた。明らかにあの時のことが侑子に影響を及ぼしているように見えた。  ふう、と小さくひと息ついて、晴彦は手元のスマホから目を離しバスの窓の外に目線を向けた。政令指定都市であるとは言え、都市部から少し離れると田園すら広がるこの辺りは、晴彦が以前住んでいた首都圏に比べたら田舎であると言わざるを得ない。それでも晴彦は、人工的な明かりと豊かな緑が混在するこの土地が嫌いではなかった。幼少期のいつかに住んでいたもっと田舎の土地はそれはそれで人情味があったのだが、若干人間関係が親密過ぎて母親のストレスの一因になっていたし、数年前に住んでいた都市部は確かに豊かであったのだろうが、その頃はレムコードに勤めて忙殺されていたので正直その豊かさを実感する暇も無かった。深夜まで残業した帰り足でぼんやりと眺める街のイルミネーションも、プロジェクトの進捗やサーバーの稼働状況で頭を占められた晴彦には、無駄な電気の使途に見えた。この土地は本籍がある、という意味では故郷にあたるのだろうが、晴彦にはその実感がない。だが、煩わしい近所付き合いを強要されるほど田舎でもなく、外に目を向ければ連なる山の手前にビルの明かりが見える。田園と住宅地が混在する郊外のこの辺りまでくると、一気にバスの乗客が少なくなってくる。日が翳って時々点滅するのが見えるようになってきた電波塔を見ながら、晴彦はこの土地が、レムコードから逃げるように越してきた彼を無言で受け入れる懐があるように感じていた。  最寄りの停留所の名前が車内にアナウンスされて、晴彦は我に返りスマホをジャケットのポケットに仕舞い込んだ。足元に置いたバッグを手に取ろうと屈んだ瞬間、晴彦は白いコンビニ袋に入ったそれを見てなんとも言えず奇妙な、しかし不快ではない自分の内心に、フッと口元を緩めた。

(どういう心境の変化なんだろうな)

 晴彦は心の中でそう一人ごちて、足元に置いていた荷物を膝の上に載せた。停止ボタンは誰かが押したようだ。自分の居住地に戻る時にこんな気持ちになったことが、今まであっただろうか。さあ、帰ろう。妻の待つ自分の家へ。

「ただいま」

 晴彦の予想通り、家の電気は付いていなかった。侑子は一人でいる時、あまり部屋を明るくしたがらない。人の気配はあるのに薄暗い部屋の中は、どこか埃っぽくて冷えているようにも感じた。奥からか細い返事が聞こえた気がして、晴彦は靴を脱いでリビングに向かった。  侑子は今朝横になっていたソファの上で、同じような体勢のまま顔だけをこちらに向けていた。まさか一日中ここにいたわけではないだろうが、その目は覇気のある時と同じとは言い難い。晴彦は少し苦笑いして、持っていたバッグをソファの空いているところ、ちょうど侑子の足元あたりへ置いた。視界の端で、サイドボードに置かれた侑子のVRデバイスがチカチカと通電のランプだけを点灯させていた。晴彦は、侑子がそれをしばらく使用していないことを知っている。

「今日のGPSは少し調子が悪いようだな。ちょうどバス停のあたりで、いきなり2丁目まで移動していた」

 物憂げな口調だが、今度ははっきりと侑子の言葉が聞こえた。晴彦は内心で、安堵している自分を観測した。

「そうなの? 別に俺、瞬間移動はしてないよ」

 晴彦の軽口に、侑子はふふ、と声だけで笑った。侑子がこういう、表情を伴わない笑い方をするのを見るのも慣れてきた。  こんな状態でも晴彦の位置情報は確認しているあたり、侑子らしいと言えば侑子らしい。在宅勤務の多い侑子と違い、晴彦はプロジェクト次第で通勤も必要になる。別にどこに寄るわけでも無いのだが、それで侑子が納得するのならと晴彦はあっさり位置情報を共有していた。

「はい」

 晴彦は、手にしていたビニール袋を侑子に渡した。カサ、という乾いた音を立てる白い袋。きょとんとした顔をして、起き上がりながらそれを受け取った侑子は、その中身を見て少し目を大きくした。

「好きでしょ? それ」

 侑子がビニール袋の中から取り出したのは、コンビニで売っている少し大きめのプリンだった。侑子が少し驚いたような顔でこちらを見つめたので、晴彦はまた苦笑いをした。

「なんて顔、してるの」 「いや……ちょっと意外だった……」 「失敬な。元気のない妻を心配して、わざわざ買ってきたっていうのに」

 妻、のところをわざとらしく強調してそう嘯くと、侑子はなぜか、少し困ったような顔で微笑んだ。

「妻らしいことなど、何もしていない……最近は、特に」

 そう言って憂いを帯びた目を伏せる侑子に、晴彦は自分の胸が粟立つのを感じた。無性に今、彼女に触れたい、と思っている。この腕の中に彼女を収めて、その温度を間近で感じたい。今、二人の間にある微妙な距離を、この手で壊してしまいたい。  だが、晴彦は侑子がそれを求めていないのも知っている。一瞬だけ目を閉じて、気付かれないようにそっと息を吐く。それでも鎮まりきらない情動の名残で、晴彦はそっと侑子の髪に触れ、指を絡ませた。

「……気にしなくていい。それに、侑子さんは充分よくやってくれてるよ」

 拒絶の意思を示されるかと思ったが、侑子はただプリンのパッケージに目を落としたままだった。だが、それが受け入れているとも限らない。さらさらとした髪から覗く白いうなじが見えて、晴彦はわずかに喉が鳴るのを押し殺した。微かな震えを悟られないように、指を絡めた侑子の艶やかな黒髪に唇を落とすと、晴彦は名残惜しい気持ちを感じつつも侑子の髪から手を離した。  思いもよらない自分の衝動に、晴彦は自分で驚いていた。元々、晴彦が侑子を受け入れたのは利用するためのはずだった。侑子からのやや歪んだ好意を、好都合とさえ思っていたのに——その彼女のことを、晴彦は身を案じ、配慮し、もっと触れたいと今は思っている。佐々木の死の真相に迫りたいという気持ちは以前よりも増しているぐらいだが、その反面、彼女を危険な目に合わせることにわずかな躊躇が混ざっている。  そんな晴彦の迷いを知ってか知らずか、侑子はただ黙って立ち上がり、冷蔵庫まで歩いて行った。通りすがりに微かに香った花のような甘さは、侑子が使っているシャンプーの匂いだろうか。侑子はビニール袋からカサリと音を立ててプリンを手に取ると、冷蔵庫のドアを開けてその中に仕舞い込んだ。

「これは、食後の楽しみにとっておくよ。……夕食は、昨日の残り物で構わないか?」 「うん。でも、温めるだけでいいなら俺がやるよ。侑子さんは座ってて」 「晴彦」

 キッチンに入って手を洗おうと袖をまくったその時、唐突に名前を呼ばれて晴彦は手を止めた。侑子の方に目を向けると、彼女はまっすぐにこちらを見据えていた。その目は、先ほどまでの憂いを残しつつも凛とこちらを向いている。

「また、ダイブをさせてくれ」

 唐突な侑子の言葉に、晴彦の瞳が揺れた。侑子の言葉に迷いはなく、確たる意思があるのがわかった。

「頼む……おれは、ねこねさんに……伝えなくてはならないことがある」

 違う、迷っていたのは自分のほうだと、晴彦はその時に気が付いた。侑子はすでに、自分の行動を決めていたのだろう。ただ、それを迷っている自分に言い出せなかったのかもしれない、と晴彦は思った。

「……うん、わかった。でもその前に、ご飯にしよう」

 その時、自分がどんな表情をしていたのか、晴彦にはよくわからなかった。ただ、晴彦がそう伝えると、侑子は少しほっとしたように笑って見せた。

********

「わざわざ来てもらってすみません、榊チーフ」

 大きなラップトップやHDDなど、様々な機材を小脇に抱えてリュミヌー珈琲の裏部屋に入ってきた榊は、晴彦にそう声をかけられてふん、と鼻を鳴らした。

「似たもの夫婦に勝手に暴走されるよか、百億倍マシだ。やっと報連相を覚えてくれたようで、オジサンは何よりだよ」「ははは……それを言われると面目ないです」

 榊と晴彦がそんなやりとりをしてる間、侑子は静かに起動音を立てるAetherLinkエーテルリンクに体を横たえて軽く目を瞑っていた。ここしばらく瞑想すらしてなかったので、少し感覚を忘れていた。

(第一から第三のチャクラはまだ少し乱れている……が、第四からは問題ない)

 かえって第一チャクラのグラウンディングや第三チャクラのパーソナリティは安定していないほうがダイブしやすいのだが、問題はそれが自分自身にどのような影響を及ぼすかだ。侑子は目を開けると、自分の左手に目線を向けた。共鳴装置レゾネーターは緑色で安定しているようだった。

「……しかし、さっき聞いた話は本当なんだろうな?」

 榊の問いかけに対して、侑子は深く頷いた。

「だとしたら……その、ねこねさんとやらを救出するのが最優先だ。タイムリミットがあるからな」 「はい……ご主人の話から推察するに、あと5ヶ月以内ってところですかね」

 侑子はそう答えて、無意識に唇を噛み締めた。榊は機材を設置する手を止めて、侑子に歩み寄った。

「侑子さん……焦る気持ちは分かりますが、くれぐれも以前のような無茶はしないで下さい。今日はひとまず、ねこねさんに接触できるかどうかだけです。その見通しが立ってから、改めて体制を整えます」

 真剣な表情の榊にそう言われて、侑子は目を瞑って深呼吸した。

「……はい」 「ダイバーのバイタル値正常。エーテルの共鳴値、安定。」 「マップ起動。座標はNileナイル内の滝がある場所だったな?」 「はい。転送設定完了してます」 「よし……じゃあ、侑子さん。よろしくお願いします」

 榊にそう言われ、侑子はニッと笑ってヘッドギアを装着した。途端に視界は暗く遮られて、数行のプロンプトが表示されるのみとなった。

「Etheric Dive、開始します」

 晴彦のその声と共に、侑子の意識は体から離れていった。

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