「侑子さん、侑子さん!」
晴彦は必死に、インカムのマイクに向かって声をかけ続けた。しかし、先ほどまで聞こえていた侑子の声は、まるで携帯の電波が悪くなってしまったかのように掠れ始め、やがてノイズの比重が多くなり、ついには何も聞こえなくなってしまった。 そして、侑子の声が聞こえなくなる前に一瞬だけ耳に入ってきた男の声。晴彦はその声に聞き覚えがあった。耳に馴染みのある懐かしい声。だが、もしあの声がそうだとしたら——
「クソッ! Netherlayerの状態が違うと分かった時点で止めるべきだった!」
榊が声を荒げていたが、今の晴彦には聞こえていなかった。侑子の指の共鳴装置は今まで見たことが無いほどに真っ黒になっている。異常事態なのはひと目で明らかだった。晴彦は侑子が横たわるAetherLinkに走り寄って、衝動的にケーブルを鷲掴みにした。
「おい! 進藤何やってんだ!」 「強制的にこっちに戻します!」 「バカ!! 物理的な接続を遮断したら、お前の嫁に負担がかかるんだぞ!」 「でも!」 「でもじゃねぇ! しっかりしろ進藤!」
榊の一喝で晴彦は顔を歪めたが、ケーブルにかけていた手を引いた。それを見て、榊は深い溜息を吐きながら、持ってきたキャリーバックを開けて中を漁り始めた。
「ったく……お前今、迷い無くケーブル引っこ抜こうとしたな? 何度かやってるんだろ、嫁さんを戻すために」 「……」 「昭和生まれのオッサンじゃあるまいし……仮にもエンジニアならもうちょいスマートなやり方ってもんがあるだろうよ……っと」
そう言って榊は、キャリーバックの中から出した何かを晴彦に投げ渡した。晴彦がそれを掴み取る。それは、一般的に普及しているゴーグル型のVRデバイスに見えた。榊は更に、数珠のようなものと数本のケーブルを取り出した。数珠には見覚えがあった。以前、侑子のエーテル体を捕まえる時に使った共鳴装置と同じものだ。
「その共鳴装置はお前に反応するように設定してある」
榊はVRデバイスとAetherLinkを接続しながらそう言った。
「……どういうことですか」 「お前、霊感あるんだよな。視えるんだろ? じゃあ俺よか適性があらぁ」
そう言って榊は、数珠型の共鳴装置を晴彦に差し出す。晴彦は訝しがりながらもそれを受け取った。共鳴装置は一瞬光ったのち、緑色へと変化していった。
「こんなに早く使うつもりじゃなかったんだがな……AetherLinkの子機だ。親機を使用してる侑子さんのエーテル体に乗っかって、同じルートを追従することができる。簡易的なやつだから送れるのは視界と声だけだし、長くは居られないからな。 ……お前らのログがあまりにも異様だったから万一を考えて準備しておいたんだが、調整もしてないからぶっつけ本番だぞ?」
それを聞いて、晴彦は迷いなく共鳴装置に手首を通し、VRデバイスを装着した。デバイスから伸びる電極のケーブルは、榊が晴彦の後ろにまわってうなじ周辺に貼り付けていた。
【リンク・シーク中】 【エーテル共鳴 68% 許容範囲】 【Master Diver : hakuhi, Slave Diver : HAL】 【Etheric Dive Protocol v0.94 Boot up】
デバイスの内側に流れるプロンプト。デバイスの電極部分と接触している皮膚から、わずかにピリピリと電気のようなものを感じる。
「侑子さんみたいにうまく飛ばせるかは、わかりませんよ?」 「そこはアレだ。夫婦の愛ってやつでなんとかしろ」 「無茶いいますね……!」 「無茶でもなんでも、お前が嫁を連れ戻すんだ……よ!」
榊が設定を入力し、エンターキーを押した瞬間に晴彦の視界は光が広がってホワイトアウトした。
晴彦の体がカクリと脱力した。共鳴装置はゆらゆらと濃淡を繰り返してはいるが、緑の状態を保っている。 榊は再び深く溜息を吐くと、胸ポケットから煙草を取り出した。ひとつ咥えて、大きく息を吸い込む。ここが禁煙なのは分かっているので火を着けはしなかったが、やたらと煙草が吸いたい気分だった。 榊は小さく舌打ちすると、煙草の吸い口を噛み潰しながら視線を晴彦と侑子のほうに向けた。
「コア・リンクか……癪に触るが、使えるもんは使ってやろうじゃねえか」
********
『雹緋さん、どうしたの? こっちで一緒に遊ぼうよ』
尚も遥奈は侑子のほうに手を差し伸べていた。 きっと、この手を取れば楽になれるのだ。父親のあの仄暗い視線や、母親の刺すような鋭い言葉も思い出さずに済む。自分の素肌を見る度に吐き気を伴うような不快感を感じることも、キッチンに立つ度に命の危険を感じることもない世界。それは、心のどこかで侑子が切望している世界だった。 侑子は、震えながらゆっくりと、その手を伸ばそうとしていた。その時だった。
『侑子さん!』
聞き馴染んだ声が、耳元ではっきりと聞こえた。肩ではためく黄色い蝶が、一際強く光り始めていた。
『侑子さん……戻ってきて。俺たちは……俺は、あなたが必要なんだ』
その声で、侑子は思い出した。そうだ、自分にはするべきことがあった。痛覚で頭の霧を晴らすように、ぎり、と下唇を小さく噛む。過去など、とうに噛み砕いて飲み込んだのだ。 侑子は、差し出しかけたその手をぐっと伸ばし、遥奈の手首を掴んだ。いつの間にか、侑子の腕には着物の袖が翻っている。座り込んで見上げていた遥奈の顔は、同じぐらいの目線になっていた。何もかもを飲み込んで、それでも前に進み続けた——今の侑子の姿だった。
『目を覚ませ!』
急に手首を掴まれた遥奈は、侑子の剣幕に威圧されてびくりと肩を震わせた。遥奈に、若干の躊躇の色が見える。しかし、すぐにキッと侑子を睨み付けた。
『ひどい! なんでそんなこと言うの!?』 『確かに、ここにいることがねこねさんにとっては救いなのかもしれない。だけど、それでも……!』
侑子は遥奈の手首を掴む手に、更に力を込めた。どんなに酷でも伝えなければいけないのだ。それが、晴彦たちに見込まれたダイバーとしての、何より遥奈の友人としての、自分にしかできないことなのだと侑子はわかっていた。
『あなたが……ねこねさんが目を覚まさなければ、守れない命があるんだ! あなたのお腹の中に!』 『……!』
侑子の言葉に、遥奈は目を見開いた。掴まれていないほうの手が、無意識になのか遥奈自身の腹に恐る恐る触れていた。
『私の……お腹……』 『そう。あなたは、妊娠しているんだ』
意表を突かれたような遥奈の表情。しばらく遥奈はそのまま固まっていた。 唐突に、甲高い金属音のようなノイズが響き渡った。観覧車の硝子が割れて、砕け散ると同時に黒い蝶へと姿を変える。その蝶が数を増やすと共に、纏わりつく空気が重くなっていくのがわかった。
『知らない……そんなの、私は知らない!』
遥奈はそう叫ぶと、侑子の手を振り払って走り出した。
『ねこねさん!』
侑子は即座に遥奈の後を追おうとしたが、立ち上がった瞬間後ろに引き寄せられた。咄嗟に後ろを振り返ると、遥奈の隣に立っていた男が侑子の手首を掴んで引き留めている。黒い蝶は、男の周りに集まり始めていた。
『何を……!』 『君は……進藤の、何だ?』 『!?』
男は、口元を動かしもせず侑子にそう問い掛けた。この男から晴彦の苗字が出てきたことに侑子は訝しかった。そういえば先ほども、この男は「進藤」と口走っていたのだ。
『居るんだろう? 進藤、そこに』
男はそう言って、侑子の肩の黄色い蝶に手を伸ばす。すると、蝶は鋭く輝いて、まるで電流を流したかのように男の手を弾き返した。
『俺の妻に触るな』 『つれないな、進藤。結婚することがあれば私に真っ先に話すと、そう言ってくれたじゃないか』 『違う……そんなはずは、ない』
晴彦の声は、今まで聞いたこともないような動揺をのせて震えていた。 遥奈の父親として現れた男。侑子はそれを、遥奈が生み出した幻影——いわば、この世界のNPCだと思っていた。以前Netherlayerに囚われていた老人とも共鳴波が違う。人のように動いているが、どこか無機質。しかしこの男は、まるで自らの意思があるかのように動いている。それは侑子の中で、ある可能性をちらつかせていた。
『死んだんだ……あの人は……佐々木さんは』
晴彦の言葉に、侑子は息を飲んだ。そしてその言葉は同時に、侑子にある単語を思い出させていた。
——Eternum AI
目の前の男は、ニヤリと笑って侑子の手を引き寄せる。侑子が体のバランスを崩して、倒れそうになった、その時だった。 黄色い蝶が一際強く光り始めた。周囲の黒い蝶がその光に怯み、或いはノイズの片鱗を残してかき消されていく。それに気付いた男は、ふいに侑子の手を離した。
『侑子さん、戻ります! 付いてきて!』
その言葉と共に、黄色い蝶は周囲を覆うほどの眩い光を放った。あまりの光に侑子は目を細めたが、その光の中に馴染みのある晴彦の手が差し伸べられているのが見える。侑子はその手をしっかりと握ると、意識がこの世界から離れていくのを感じた。
********
「進藤! 侑子さん! 無事か!?」
榊の声で目を覚ますと、侑子はAetherLinkの中に横たわっていた。腹のあたりに重みを感じて目を向けると、そこにはVRデバイスを頭部に装着した晴彦が上半身を載せている。よく見るとそのVRデバイスは、AetherLinkと何本ものケーブルで繋がっているのがわかった。
「これは……?」 「……っはー、ヒヤヒヤした……おい、進藤起きろ。嫁さんのご帰還だぞ」
そう言いながら、榊は晴彦の頭を小突く。すると、晴彦はガバッと体を起こして、即座にVRデバイスを頭から外した。
「侑子さん!」
開口一番、晴彦は侑子の名を叫んで侑子に覆い被さった。晴彦の整った顔が侑子の目の前に近付いて、侑子は一瞬ぎょっとしてしまった。
「良かった……戻って来れた……!」
そう言って、泣きそうなほど安堵した表情を見せる晴彦は、未だAetherLinkに横たわっている侑子の上半身をそのまま抱き寄せた。侑子は衝動的に晴彦を突き飛ばしそうになったが、思いの外嫌だと思っていない自分に気が付いた。
「はは……大袈裟だな……」
両手を晴彦の背中に回し、宥めるようにぽんぽんと軽く叩く。あまり男を感じさせない晴彦の細い体躯とは裏腹に、その腕は思いの外力強かった。温かい。人の体温とは、こんなに温かいものであっただろうか。熱いほどに感じる晴彦の熱は、ダイブ後の侑子の体が冷えていたことを気付かせた。
「何言ってるんですか。あなたの共鳴装置、真っ黒だったんですよ? 進藤が潜りに行かなかったら、戻って来れなくなってたでしょうね」
火のついていない煙草を歯でゆらゆらと揺らしながら、榊は侑子の共鳴装置を指差した。侑子は晴彦の頭ごしに自分の指を見ると、共鳴装置は濃紺と深い緑の間でゆらゆらと揺れ動いていた。
「侑子さん……」
晴彦の声が聞こえる。その温かさが、思いの外心地良い。他の人間の体温を感じるなどいつぶりだろうか、随分とそういうものに触れる機会がなかったように思う。侑子の意識はその安心感に満たされて、徐々に深いところへと沈み始めた。
「……侑子さん?」
体の力が抜けていく。耳の奥で黒い蝶のはためくノイズが聞こえるような気がする。Netherlayerで強制的にフラッシュバックを見せられたことが影響しているのか、あの世界の何かが自分の中に残っているのか。遠くで晴彦と榊の呼ぶ声がするが、侑子の意識はどんどん沈んでいく。そして、やがて何もわからなくなった。
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