「……ええ、まだ。……申し訳ありません、ご迷惑をおかけします」
晴彦は通話を終えると、椅子に座ったまま溜息をついた。致し方無いとは言え、妻の会社に電話するというのはあまりしたくないものだ。仕事で関わったことがある会社なのでまだ気楽だったが、これが全く関わったことのない職種だったらどう思われることだろう。 そう思ってぼんやりしていると、手元に日差しが当たっていることに気付いた。顔を上げると、白い病室のカーテンが開いていて太陽の光を室内に取り入れていた。その日差しは、晴彦の椅子の隣にあるベッドにも差し込んでいる。ベッドには、バイタル計測の装置や点滴が繋がれた侑子が横たわっていた。日の光に照らされた侑子の白い顔は、普段寝ている時よりも若干穏やかそうな表情をしているように見えた。 コンコン、と病室のドアを叩く音がした。
「失礼します。進藤さん、様子はいかがですか」
スライドドアを開けながら、看護師が入ってきた。晴彦が軽く会釈すると、看護師も小さく頭を下げて侑子のベッドに近寄る。
「搬送されたのが一昨日でしたね」 「はい。その前日を含めるともう三日経ちますが、まだ一度も目を覚ましていません」
看護師は侑子の顔色やバイタル、点滴などをチェックして手元のバインダーに書き込みながら、晴彦に声をかけた。
「先生が言うには、体や脳には異常が無いとのことで……」 「そうなんです。だから、状態としては眠っているのと同じなんですよね。……ただ、目を覚まさないだけで」
そう言いながら看護師は、少し考え込むようにボールペンを口元に押し当てた。おそらくはこの看護師の癖なのだろう。
「……VRをなされていて、急に、ということでしたよね?」 「ええ、まぁ……そんなところです」
厳密には若干ニュアンスが違うのだが、間違ったことは言っていない。それに、シチュエーションから考えてNetherlayerへのダイブが直接の原因であることは明らかだったが、他の原因——例えば、本人も知り得なかった病魔の可能性も捨て切れない。 晴彦はあの後、榊の手を借りて一旦侑子を自宅に連れて帰った。以前もこんなことがあったし、その時は一晩で目を覚ましたからだ。しかし、翌朝が来て昼を過ぎても侑子が目を覚ますことはなかった。そのため、晴彦は早々に医療機関に頼る判断をした。 そして、今に至る。
「最近、珍しくないんですよ。こういう患者さん」
看護師はボールペンを口元に当てたまま、ポツリと呟いた。
「珍しくない?」 「あ! 詳しいことは個人情報保護の観点からお話しすることできないんですけど!」
晴彦が聞き返すと、看護師は慌てた様子でそう言いながらボールペンを胸元のポケットに戻す。そして、少し目線を泳がせた後に、言葉を選ぶように話し始めた。
「VRをしていて倒れてしまって、そのまま目が覚めずに搬送されるパターン……他の病院でも聞いたことがあります。大体そういう患者さんって、体には何の問題も無いんです。大体そういう患者さんってレイヤに長時間ログインしてたような患者さんなので、私たちの間では『レイヤ病』なんて言われてるんですけど」 「……なるほど?」 「だから……一度は病院に運び込まれるんですけど、自宅介護になるケースが多いです」
自宅介護。つまり、同じように倒れた人間は大体、目を覚ますことなく眠ったまま自宅に戻るということだ。 晴彦は静かに、手のひらに爪を食い込ませた。人の良い夫に見えるよう、顔には僅かな笑顔を貼り付けて。
「そうなんですね……教えてくれてありがとうございます。あ、カーテン閉めても構いませんか?」 「ええ、構いません。ご主人も、無理はなさらないで下さいね」
看護師の気遣いに晴彦はまた軽く頭を下げると、看護師が退室してドアが閉まるのを見届けてから立ち上がり、窓に歩み寄った。
「侑子さんは、眩しいのが嫌いだからね」
口の中でそう呟いてフッと笑うと、晴彦はそっとカーテンを閉めた。侑子の顔にあたっていた日差しが遮られて、室内が若干暗くなる。 その時、晴彦のポケットの中でスマートフォンが振動した。手に取ると、それは榊からの通知だった。 晴彦は、侑子の方に目を向ける。その左手の共鳴装置は緑色を保ってはいるものの、ゆらゆらと不安定に揺蕩っていた。
********
「で、進藤。お前は何食うんだ?」
食堂の券売機の前で、榊は進藤に声をかけた。
「はい?」 「はい、じゃねえ。奢ってやるって言ってんだよ。後ろが詰まってるんだから早く選べ」 「あぁ……じゃあ、もりそばで……」
そう返すと、榊は若干溜息を吐きながら天ざるそばのボタンを押した。晴彦は何か言おうとしたが、榊は手際良く決済を済ませて券を一枚晴彦に差し出した。
「あの……」 「なんだ、天ぷらは嫌いか?」 「あ、いえ」 「じゃあ食っとけ」
榊はぶっきらぼうにそう言うと、券売機から離れて空いている席を探す。進藤は何も言わず、榊の後ろを付いて歩いた。ちょうど、窓際のカウンター席が二席空いていた。榊はその片方の椅子に手をかけると、椅子を引いてどさりと座り込んだ。 正直、今は脂っこいものを食べたい気分では無かった。侑子の作るチャイの優しい甘さが脳裏をよぎる。しかし、これはこれで榊の優しさなのだろう。晴彦は素直に甘えることにした。
「なんか、すみません……ありがとうございます」 「仕事のついでだから、見舞いの品も何もないんだ。このぐらいはさせてくれ」 「仕事?」 「あー……まぁ仕事っつっても、営業がこっち方面に行くって話だったから言いくるめて付いてきただけなんだがな。だから、昼飯の間だけだぞ?」
そう言って、榊は苦笑いした。隣県に住んでいる榊がわざわざここまで足を運ぶのは大変だろうに、1週間もしないうちにまた顔を合わせることになるとは晴彦も思わなかった。つられて、晴彦も少し笑った。
「しかし、病院の食堂だから大したもんはないと思ったが、ラーメンも種類が多いしうな重まであるんだな。さすが大学病院ってところか」 「病院に用がなくても、わざわざここの食堂にランチするためだけに来る人もいるらしいですよ。昨日看護師さんが言ってました」 「はぁ……すっげえな」
食堂内に、食券番号のアナウンスが鳴り響く。晴彦の番号はもう少し先だ。フロアを見渡すと、水やおしぼりはセルフサービスになっているようだった。晴彦が席を立とうとしたその時、榊が晴彦の動きを制した。
「いいって。座ってろ」 「でも……」 「お前……自覚ないかもしれんが、だいぶ顔色が悪いぞ。お前まで倒れたら誰がお前の嫁の面倒を見るんだよ。いいからこういう時は甘えとけ」
そう言って、榊は足早に行ってしまった。晴彦は小さく笑って、目の前のガラスに映る自分の顔を眺めた。当然だが、ガラスへの映り込みでは自分の顔色まではわからない。元々病弱そうな顔をしているとは言われがちだが、そんなに酷い顔をしているだろうか。 溜息をついて、自分の左手首に目を落とした。あの時から、晴彦は自分自身も共鳴装置を付けている。それは明るい緑色で安定しており、あまり揺らぐということがなかった。 思い返せば、侑子の共鳴装置はいつも揺らいでいた。常に緑色ではあったものの、まるで光の加減で色を変えるアレキサンドライトのようにゆらゆらと不安定だった。晴彦はそういうものなのかと思っていたが、もし自分が今付けている共鳴装置の反応のほうが正しいとすれば、晴彦は不安定な状態の侑子に随分無理を強いてきたということになってしまう。 晴彦がまた自分の手のひらに爪を食い込ませた時、榊がお冷とおしぼりを持って戻ってきた。
「あんま考えこむなー? お前が思い詰めても、嫁さんが目を覚ますわけでもねえんだし」 「……ありがとうございます」
榊が差し出したお冷を受け取ると、晴彦はそれに口をつけた。考えてみれば、今朝から水分らしい水分など何も摂っていなかったかもしれない。氷の入った冷たい水が、やたらと喉に浸透していくのを感じた。 榊はそんな晴彦を横目で見つつ、椅子に座り直していた。
「侑子さんは、確か元々霊媒体質だって言ってたな。自力で幽体離脱の類をやってる可能性は無いのか?」 「無いと思います。侑子さんの共鳴装置の反応は、ダイブ中鮮明な青と緑で揺らぎます。彼女が意識を失ってからはずっと緑なので……少なくとも、彼女の魂魄は今のところ、体に留まっていると考えられますね」 「ふぅん。それは、お前の【霊感】で視ても、ってことか?」 「……そんなに便利に霊感を操れたら、俺だって苦労しないですよ」
思わず本音が溢れて、晴彦はしまった、と思った。しかし、事実でもあった。この【霊感】があるせいで、今まで見るつもりが無いものまで視えてきた。成人してからはいつの間にかはっきり視えることは無くなったが、今でも強烈な思念を残すものはたまに視えることがある(そして、侑子の生霊もその類であったことは否めない)。病院には、そういう類のものが多い。晴彦が憔悴しているのは、一部そういう理由もあった。 だから、仕事をしている時間が一番楽なのだ。命令通りに動くプログラムの美しさは、そういった思念の類を忘れさせてくれる。勤めた会社がその思念をどうにかしようとしているような会社だったのは、皮肉な話だ。
(……思念……死者の、霊?)
そこまで考えて、晴彦は前日のダイブで見た、佐々木のような人物のことを思い出していた。あの身体的特徴も声も、晴彦が知る佐々木そのものだった。それが何故、侑子と対峙していたのか。
「……いや、悪かったな。変なこと聞いた」
沈黙する晴彦を見て機嫌を損ねさせたと思ったのか、榊は水を飲みながら謝った。 バタバタと動き回っているうちにいつの間にか酷暑の時期が終わろうとしていた。窓の外には鮮やかな緑色をした木の葉が緩やかに揺れている。世間では夏休みも終盤に当たる頃だ。もうしばらくすると、自宅の外でまた騒がしく登下校する子どもの声が聞こえ始めるのだろう。 再び、フロアにアナウンスが鳴り響いた。晴彦は自分の食券番号を確認した。どうやら、呼ばれたようだ。晴彦が席を立つと、榊も同時に立ち上がった。
「俺もだ」 「榊チーフは何にしたんです?」 「ネギ塩豚骨ラーメン」 「あ、それ美味しいですよ。俺昨日食べました」 「へえ、楽しみだな」
軽く話しながら、食事を受け取りに行く。チケットを女性に渡すと、天ぷら付きのざるそばが渡された。晴彦は女性に軽く会釈して、お盆を手に取り席に戻る。 椅子に座り直し、テーブルに置いた盆の縁にあった割り箸を手にとろうとしたその時、榊が何かを晴彦のほうに差し出した。それは、書類の束が入ったバインダーだった。
「……これは?」 「レムコード本社のサーバー内にちょいと入らせてもらって、ある単語で検索した時にヒットした書類片っ端から印刷した。まあ、たったこれだけだったがな」 「ある単語?」
榊は、晴彦がバインダーを受け取ると割り箸を手にとって両側に引っ張った。割り箸は歪んで割れていたが、榊は気にする風でもなく、そしてまるで日常の会話のようなトーンで言葉を続けた。
「お前にはキツい内容かもしれんから、渡すかどうかだいぶ迷ったんだがな……コア・リンク計画、って聞いたことあるか?」
衝動的にバインダーを開こうとした晴彦を、榊は片手で制止する。尚も目は合わせない榊に晴彦は何かを察して、そのバインダーをそっと傍らのトートバッグに仕舞い込んだ。
「うん、そうした方がいい。後で読め、家とかで。……美味いな、このラーメン」 「榊チーフ……」
晴彦は、僅かに震える手で割り箸を持ちながら、榊に問いかけた。
「……えび天、食べませんか? 実は胃がもたれてて」
そういって、晴彦はニッと笑う。それを見た榊はラーメンを咀嚼しながら、器用に声を出した。
「お前なぁ……そういうことは、先に言えよ」
榊はそう言いながらも、同じように笑って見せた。
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