「……ただいま」
玄関に立った侑子は若干はにかみながら、そう呟いた。入院に使ったいくつかの荷物を抱えて先に部屋に入っていた晴彦は、その侑子の声を聞いてふわりと微笑んだ。
「おかえり、侑子さん」
その笑顔に、心なしか晴彦の印象が変わったように侑子は感じた。こんなふうに笑う男だっただろうか。いや、それとも自分の受け取り方が変化しているのか。思えば、彼の目を見て話すことを、以前の自分はしていただろうか。 ふと、部屋の中をぐるりと見回す。酷い有様、とまではいかなかったが、色んなものが停滞しているように見えた。一応少しは洗ったようだが、洗いカゴから食器棚に戻されていない食器の数々。侑子が居ない間は自分で料理を作る気にはなれなかったのだろう、流しにはカップ麺やコンビニ弁当の容器が置かれている。洗濯機の前のカゴには服が山積みになっていたし、以前侑子が洗って干していた洗濯物は取り込まれてもいなかった。
「……まずは片付けからか?」
溜息まじりにそう呟きながら、侑子はリビングに足を運んで近くのソファに腰を下ろした。
「うーん。侑子さんが気になるような状態にしていたのは申し訳ないけど、割と俺もいっぱいいっぱいだったから大目に見て欲しいな。それに、まだ退院直後だよ? 本調子じゃ無いんだから、いきなり家事を始めるのはやめてね。しばらくは俺が、少しずつでもなんとかするから」
そう言うと、キッチンで何かゴソゴソと動いていた晴彦は侑子の近くにやってきて、氷の入ったグラスを手渡した。その中には、水出しの紅茶が並々と注がれていた。
「……この紅茶、いつのだ?」
侑子は訝しがりながら晴彦にそう尋ねる。晴彦は苦笑いしながら、侑子の隣に座って自分の分のグラスを傾けた。
「古いのなんか出さないよ。昨日作ったやつだから安心して? これだけは切らさなかった」
それを聞いて、侑子はちょっと意外そうな顔をした後、フッと笑ってグラスに口を付けた。タクシーで移動して来たとはいえ、炎天下の中を移動して来た後だったので正直ありがたかった。
「……それで? おれが眠っていた五日間の間に、状況はどうなっているんだ?」
侑子がそう切り出すと、晴彦は一瞬躊躇した様子だったが、グラスに目を落としたまま小さく首を振った。
「詳しいことは後でちゃんと話すけど……状況は多分、かなりまずいことになってる。Eternum AIのベータ版リリースももうすぐだ。こんなことになったのに心苦しいけど……すぐにでも、侑子さんにダイブして欲しいぐらいなんだ」
それを伝える晴彦の表情は、苦悩に満ちていた。グラスを持つ両手の指に力が入っている。侑子は自分のグラスをサイドボードに置くと、晴彦の手をグラスごとその手で包み込んだ。
「晴彦」
侑子の声に、晴彦は俯いていた顔を上げる。侑子は真正面から、晴彦の眼鏡の奥の瞳を見据えていた。
「おれの気持ちは変わっていない。お前の力になれるなら、おれはなんだってやるよ」
そう言って、侑子は笑ってみせた。そして、晴彦のグラスを手の中から取り出し、サイドボードに置く。晴彦の手が、侑子の指を絡め取る。侑子はそれに引き寄せられるように、晴彦の胸に体を預けた。 夏休みに入っているのだろう、近くに住む子どもの声が遠くから聞こえてくる。しかし、部屋の中は静まり返っていた。ただ、互いの心音のみが響いていた。
「侑子さん……」
侑子の肩に回された晴彦の手が熱い。生きている手だ、と侑子は思った。不思議と不快感は無かった。その熱さを、愛しいとさえ思った。いや、もっとずっと前から、自分はこの男が愛しかったのだ。
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久嶋はドアを閉めると、ヒールを一定の間隔で鳴らしながらデスクに向かい椅子に座った。背もたれにもたれかかって大きく息を整えると、自然と口角が上がっていくのがわかった。社員たちの喧騒から隔離された社長室とはいえ、半分はパブリックな空間である。久嶋はなんとか、笑い出しそうになるのを抑え込んだ。 やっとだ。やっと、ここまで来た。あの子が——真帆が死んでから、もう7年が経過している。そして今、やっと目処が付いたのだ。この気持ちを抑え込むのは、なかなかに難しい。
久嶋理子が真帆を産んだのは、アメリカに渡っていた21歳の時のことだった。しかし、将来を誓った相手……真帆の父親は、久嶋の妊娠中に不貞が発覚し離婚。妊娠が発覚してから入籍して、わずか半年の結婚生活だった。 男に恨みがあるかと言えば、流石に当時は死ぬほど恨んだ。しかし、自分に真帆を授けてくれたという点では感謝している。そのぐらい、産まれてきた真帆は久嶋にとっての全てだった。久嶋はシッターを利用しつつ、アメリカに呼び寄せた親の手も借りながら、真帆のために必死で働いた。その当時に入社したのが、現在のレムコードの前身となる会社だった。 久嶋は正直、プログラムなどの技術については全くわからない素人だった。だが、素人なりに技術者たちの話に耳を傾け、それを営業や広報に生かしていった。女の身で仕事を取るのはなかなか至難の業だったし、今となってはコンプライアンスに違反するような態度もかなり取られた。しかし、久嶋には生来のセンスがあったのだろう。子どもがいてあまり残業などもできなかったのだが、その中で効率的に仕事をこなし、大口の顧客を広げていく久嶋はどんどん昇進していった。 そしてついに、日本支社を任されるまでになった。アメリカの家を引き払い、「社長」という肩書で日本に凱旋した時の高揚は今でも覚えている。 しかし、その裏で真帆は苦しんでいたのだ。環境の変化もあったのだろう、真帆は精神を病んでいった。一番苦しかった時もやることが多く、仕事にのめり込むことでそれを紛らわせてきた久嶋にはどう対応すべきかわからなかった。そして、リリースされたレイヤのユーザーが爆発的に増えて軌道に乗っている時期でもあった。結果として、真帆の自死の一報は泊まり込んでいた会社の電話で知るという、最悪の結果となってしまったのだ。 久嶋は苦しんだ。レイヤのプロジェクトさえなければ、と会社を呪った。しかし、レイヤの日本でのリリースを推し進めたのは他でもない自分である。その矛盾に、酷く苦しんだ。 そんな時だった。アメリカの本社から「レイヤに重大な脆弱性がある」と連絡が入り、調査を依頼されたのは。あまり事を大きくしたくない、という本社の意向のため、限られた人間でその調査を進めた。すると、ある一定の条件でユーザーがレイヤのある位相に入り込んでしまい、ログアウトできなくなる、という現象が発覚した。 本社からの資料と調査の結果を重ね合わせていくうちに、それが「霊的な位相」であることがわかった。その位相のデータを詳しく調べると、そこに捕えられたユーザーの情報を抽出してAI化することが酷く容易であることも判明した。——例えば。例えば、その位相を利用すれば、故人さえもサルベージすることが可能なのではないか。 そこから、久嶋はコア・リンク計画にのめり込んでいった。レイヤのその脆弱性については、調査チームを解体し本社に「対応済み」と報告した。久嶋は、調査チームの一人である佐々木啓介に近付いて協力させることにした。以前から佐々木が自分に好意を寄せているのは気付いていたし、お互い離婚歴があるので話題が共有できる部分も多い。『女』であることを利用するのも仕事で慣れていたので、久嶋が佐々木を籠絡するのは他愛もない事だった。 問題は、『器』だった。その霊的な位相、彼らが言うところのNetherlayerによって故人のエーテル体を復元できたところで、その器が無ければ完全な再生には程遠い。久嶋が最初に行動したのは、籠絡した佐々木と関係を持つことだった。自らの胎にその器を宿そうと試みたのだ。しかし、その時すでに40代に差し迫っていた久嶋の体と50代の佐々木では、受胎は容易では無かった。ほどなく、久嶋の体に婦人科系の疾患が見つかり、自らの妊娠がほぼ絶望的だと知ることになる。八方塞がりかと思ったが、その時、佐々木の離婚前の娘が結婚することを知った。 その案を切り出したのは、佐々木からだった。久嶋は、コア・リンク計画の要を自分から佐々木の娘に設定し直した。それを言い出した佐々木が、どんな考えを持ってその計画を立てたのか、今となっては知る由もない。いや、囚われたAIと化した佐々木に聞くこともできるだろうが、正直なところ久嶋は佐々木の事情に対して微塵も興味は無かった。
久嶋は、無意識に自分の腹を撫でさすっていることに気付き、自嘲気味に笑った。そこに何かいる訳ではない。しかし、この計画がうまくいけば、もう一度自分は真帆を産み落とすことができるのだ。 目の前のデスクにあるラップトップを開くと、指紋認証でログインする。そしてデスクの引き出しから、ヘッドギアを取り出した。ラップトップのコンソールを開いて数行打ち込んだのち、久嶋はヘッドギアを自分の頭部にセットする。そして、キーボードのエンターキーを叩いた。
【リンク・シーク中】 【エーテル共鳴確認】 【Etheric Dive Protocol v2.16 Boot up】
「……もうすぐよ、真帆」
久嶋はそう呟くと、慈愛に満ちた表情で微笑んだ。さながら、ピエタの絵に描かれる聖母マリアの如く。
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