星降(ほしくだり)花櫛(はなくし)

1

 ある日、別れた女からひとつの櫛が届いた。

 髪を梳く為のものではない、装飾としての簪。歯の根本に金属の花が三輪咲いていて、中央の大きな花には紅く潤む様に光を反射する石。その両端の小振りな花には光を乱反射させる皹入水晶が、まるで花の柱頭の様に据えられていた。
 ものとしては良いものだろう。美しいし、据えられた石の輝きから安物ではない事が察せられる。いかにも彼女が好みそうな櫛だ。しかし、こんなものを送って寄越される心当たりが全く無い。女物の櫛を身に付ける習慣など自分には無いし、自分から贈答したものを返却されたのかとも思ったが、全くもって見覚えも無かった。
 原稿用紙に向かい、万年筆を走らせる手を止めてしばしその櫛を眺めていた。窓から差し込む光が石を照らし、その輝きを底上げする。何か言伝でも添付されてはいまいかと送られてきた封筒を逆さにしたが、塵のひとつすら出てこない。手書きで書かれた差出人の名前の字だけが、交際していた頃と変わらぬ筆跡を偲ばせるのみだった。

「お邪魔しますよ、非水(ひすい)先生」

 背後から声がした。足音からして、今書いている小説の担当編集者だろう。返事をするのも億劫でそのまま櫛を眺めていると、そいつが後ろからずい、と無遠慮に覗き込んできた。

「先生、進捗は……おや、女物の櫛ですか?」
「あぁ」
「先生も隅におけませんなぁ! どの女性に贈られるんです? 櫛なら髪の短い女性でも着けられますからね、短髪の女性というと街外れに店を構えている女将さんかな? あ、でも先生、櫛はやめておいた方が……」

 男の軽口が癇に障って、思わず手元の封筒でそいつの顔をピシャリと叩いてやった。担当はその封筒を手に取ってそこに書いてある名前を確認すると、あからさまに顔をしかめた。

「この人ですか……先生、まだ引きずってるんですか? そろそろ忘れましょうよ、非水先生ほどの作家なら寄ってくる女性なんか星の数ほどいるでしょう」
「私が贈るのではない。それは私のところに先程届いたものだ」

 すると、担当の顔が憐れむような、なんとも腹立たしい笑いを浮かべた。

「そりゃ、アレだ……先生、それはいよいよ諦めろって話ですよ」
「……なんの話だ?」
「知らないんですか? 櫛を人に贈るってのは、縁起が悪いと言われてるんですよ。別れを招く呪力を持っているとか、【苦】と【死】を招くとか……要は、その人は先生と縁を切りたい、って意味ですよ」

 そう言って男は尚も嫌味ったらしく笑っていた。頭にきた私は、卓の上の原稿を男に投げつけてやった。

「帰れ!」
「えええ……? だって先生、締め切りは今週末……」
「帰れ! 帰らんとその原稿にインクをぶちまけるぞ!」
「ひええ! ま、また来ますからね!」

 男を追い立てて、逃げるように帰っていくのを見送ると、玄関の戸をピシャリと力任せに閉めてやった。何とも言えない苛立ちを抱えて部屋に戻ると、卓の上では変わらず件の櫛が、きらきらと輝いていたのだった。

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