「ただいま」
晴彦は玄関のドアを開けた瞬間何の気無しにそう呟いて、自分にいつの間にか「帰宅の挨拶をする癖」がついていたことに気付かされた。 やや自嘲気味に笑って穿いていた黒いシューズを脱ぐ。靴下もその場で脱いで片手に持ち、左奥の浴室前にある洗濯籠の中に放り込んだ。そのまま、そこにある洗面台で手を洗う。ふと、自分の指先に目が留まった。思いの外爪が伸びている。晴彦はここしばらく、爪を切っていなかった事を思い出した。普段は日曜の夜に切るようにしているのだが、前回のダイブの後からバタバタしてしまっていたため切り忘れていたのだ。 酷く、喉が渇いていた。病院への往復だけでも真夏の日差しは確実に体力を奪ってくる。晴彦は、自分が子どもの頃はこんなに暑かっただろうかと思案したが、あまり確かな記憶が無いことに気付いて考えるのをやめた。引越しばかりしていたので、地域差もあり比較のしようがない。晴彦はキッチンに行くと、冷蔵庫のドアを開けた。ドアポケットに入れられたピッチャーには、まだ少しだけ水出し紅茶が入っていた。晴彦は愛用のマグカップを手に取ると、中を軽くすすいでからピッチャーの中身をカップに注いだ。ふと、視界に流しの中が映った。かなり雑然とした流しの中には、榊から貰った夫婦箸もある。ああ、洗わなければ、と思ったが、とにかく今は先に休みたかった。 晴彦は空になったピッチャーを流しに置くと、グラスを片手に持ちダイニングテーブルに移動する。椅子を引いて、深く腰掛けると同時に深い溜息が漏れた。部屋の中が異様なまでに静かに感じる。共に住む人間がいないだけで、こんなに空虚に感じるものであっただろうか。晴彦は眼鏡を外してテーブルの上に置き、両手で少し揉むように目を押さえた。
「レイヤ病……か」
看護師が何気無く話したその単語が、晴彦の頭に残っていた。医療従事者の間でそんな話題になるという事は、以前の終末期医療患者や遥奈のようなケースが増えているという事だ。そしておそらく、いや確実に、それはレイヤのユーザーであるのだろう。看護師はVRサービスと言葉を濁していたが、「レイヤ病」とネーミングされている時点で察する事ができる。 もちろん、侑子の場合は厳密には、それらの患者とは一線を画するのだろう。しかし、説明された状況からはそれらの患者と同等のケースであると判断するのもやむを得ない。
(それに……彼女を危険に晒した、という意味では、俺たちがやったのは同じ事だ)
そこまで思い至ったところで、晴彦は軽く頭を振って、カップの中の紅茶を口にした。渋みの少ない水出しの紅茶が爽やかに晴彦の喉を潤す。幾分冷静になったところで、晴彦はふと、昼に榊から渡されたバインダーの事を思い出した。 隣の椅子に置いたトートバッグから、黒いバインダーを取り出す。晴彦はテーブルの上に置いた眼鏡を再びかけると、バインダーを開いた。 最初の1枚目の紙には、榊の走り書きでこう書いてあった。
『電子データそのものは抜けなかったが、俺の使える本社の権限で閲覧できた範囲をプリントした。黄色の付箋は、印刷した際に黒塗りになった箇所の補足等。緑の付箋は、俺の推測。』
晴彦はその走り書きに、なんとも言えない感情を覚えた。ここまで付き合わせておいて今更だが、榊にもかなり際どい橋を渡らせている。恐らく、このバインダーの中はかなりの機密情報だ。プリントアウトさえログが残っているだろう。
(……いや、今更だ。それでも俺に見せたい情報。そういうことだ)
晴彦は奥歯をぎり、と噛み締めると、その紙をめくった。 二枚目以降は、レムコード勤務時代に見慣れた書類のテンプレートだった。しかし、その内容は一見しただけで違和感があった。英文と日本語が入り乱れた文章はそれだけでも可読性を下げるが、黒塗りになっている箇所が異様に多い。その分、榊が付けたであろう付箋も膨大になっていた。多少なら英語が読めないわけではないが、学校で学ぶ期間が少なかった晴彦にとって正直苦手意識がある。晴彦は書類を手元のスマートフォンで撮影し、翻訳アプリを使いながら内容を読み進めた。
「プロジェクトの主導は……Riko Kujima……久嶋社長か」
晴彦は社長であった久嶋のことを思い出していた。と言っても、そこまで頻繁に顔を合わせたことはない。月一の朝礼で挨拶を聞いていた程度だ。女性の身で日本支社の社長を任された経営手腕は凄まじいものだったと聞いているが、その反面技術にはそこまで明るくないらしいとまことしやかに囁かれていた。
「……!」
文章を指で追っていた晴彦は、その名前が出てきた瞬間息を飲んだ。
「……Keisuke Sasaki」
佐々木啓介。それは、晴彦の上司であった佐々木の名前だった。 薄々気付いてはいた。スレイブダイバーとしてNetherlayerに入った時に見た佐々木のアバター。あれは完全に、侑子の動きを止めるべく動いていた。しかし、こうして名前を見つけてしまうと、晴彦の心中は激しく動揺した。 晴彦は一度手を止めて、傍らに置いていた紅茶を手にとり、口に含んだ。味はわからなかった。口の中を潤して飲み下す。そして、小さく溜息をついた。
「佐々木さん……どうして……」
晴彦はある記憶を思い出していた。晴彦が在籍中の時既に片鱗が見えていたEternum AIのプロジェクト。晴彦がその情報を漁っていた時に視えた、佐々木の死の瞬間。 それは、明らかに過労による急性心不全ではなかった。サーバー室の一角で、VRデバイスと思われるヘッドギアを付けたまま身悶える佐々木の姿。そして、傍らにはその佐々木の様子をただ見守るもう一人の人影が見えていた。 そう。その霊視があったからこそ、晴彦はレムコードに不信感を持ったのだ。 正直、このバインダーの中身を読み進めることには抵抗があった。しかし、ダイバーである侑子が昏睡状態の今、晴彦にできることは情報を集めることだけだ。晴彦は背もたれにもたれかかって、天井を睨み付けた。そして目を瞑って一度深く呼吸を整えると、体を元に戻して再びバインダーに向かい合った。
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書類から読み取れたのは、ふたつのことだった。 ひとつは、Eternum AIは表向きのサービスであるということ。それさえ倫理観の問題で世間を騒がせているのだが、レムコードの目的は故人の生前ログからAIを作ることなどではない。それはむしろ副産物と言えるものだった。その実態は、生前ログを取れるほど深くレイヤを利用しているユーザーのエーテル体に徐々に干渉していき、最終的にログアウト不可能な状態にする。榊が付けた緑の付箋には『ユーザーがこの状態に陥ると、Netherlayerに捕縛される?』と書いてあった。 そしてもうひとつ。レイヤがユーザーを霊的に捕縛するのは、どうやら何某かの目的があるらしいということ。書類を読み込むと、この「コア・リンク計画」に目的があることが示唆されてはいるのだが、その部分はどこにも明言されていない。それに近い記述も黒塗りになっていて、榊の付箋も「文字化け/デコード不可能」となっていた。しかし、断片的な文章からあるひとつの、吐き気を催すような推測が可能だった。
「『捕縛されたユーザーは、何かの動力源である可能性』……か」
晴彦は、そう書かれた榊の付箋を指でなぞった。気付くと無意識で、もう片手の指をきつく噛み締めていた。 以前に依頼を受けて対応した、終末期医療を受けていた老人もそれに当たるのだろう。レイヤからログアウトできなくなり、Netherlayerの檻に繋がれていた彼。いや、蔓延しているという「レイヤ病」の患者全てがきっとそうなのだ。その捕縛の意味が、後に消費されるためだと思うとゾッとした。 ふと、晴彦は川崎遥奈のことを思い出した。Netherlayerに囚われている彼女も、消費される側だというのか。しかし、晴彦はその疑念に違和感を抱いていた。彼女のエーテル体を捕らえるだけにしては、嫌に手が込んでいる。なぜ彼女を捕らえるためだけに、Netherlayer内に遊園地まで作り出したのか? そもそもで、なぜその遊園地が効率良く彼女を捕まえることができるとわかっていた? まるで、最初から遥奈のことを知っていたかのような—— その瞬間、バインダーに触れている指先がぐにゃりと歪むように見えた。
(しまった、油断した……!)
体感的に、それが霊視の前兆であることを晴彦は知っていた。しかし、なぜ今? 部屋の中に盛り塩はしているし、侑子が所持する様々なスピリチュアル由来のオーナメント類が相乗効果を成していたのか、ここしばらくは部屋の中でまで視えることは無かったのだ。 考えられる原因は——目の前の、書類。
(……なら、逆に)
晴彦は、目を瞑ってその目眩のような感覚に身を委ねた。霊視の際の酔いそうな感覚は、何度体験しても慣れるものではない。しかし、デジタルだろうがアナログだろうが、それがスピリチュアルだったとしても、今は少しでも多く情報が欲しいのだ。 瞼の裏側の闇から、徐々に足音が響いてくる。ひとつ、ふたつ。歩幅の違うふたつの足音。やがて周りの風景が見えてきた。これはサーバー室だ。佐々木の最期を視た時と同じ部屋。
『本当に、いいのね?』
聞き覚えのある女の声。久嶋のものだと直感で悟った。その久嶋の目線の先には、佐々木の姿がある。佐々木は目を細めて微笑むと、サーバー室の片隅にあったヘッドギアを手に取った。
『お先にあちらで、お待ちしております』
佐々木はそう呟くと、椅子に座りヘッドギアを頭部に装着した。 ——ダメだ、その先は見たくない。しかし、見なければいけない。
『……娘を、よろしくお願いします』
佐々木がそう口にした直後、久嶋は手にしていたラップトップのキーを叩いた。そこから先は、以前に晴彦が視たものと同じだった。
「佐々木さ……!」
思わずそう声を上げて、晴彦は目を開けた。 目の前の視界に広がるものは、少し薄暗くなった自分の部屋だった。自分の頬や頭の中、服の中に至るまでダラダラと汗が流れているのを感じた。
(『娘を、よろしくお願いします』?)
その言葉に、晴彦の脳内は激しく回転していた。佐々木を父親と呼んでいた川崎遥奈。佐々木の離婚について、酒の席で少しだけ聞いたことがある。その時確かに、子どもがいることは話していた。佐々木の年齢を考えれば、遥奈ぐらいの子どもがいても不思議は無い。いや、もう問題はそこでは無いのだ。ということはつまり、川崎遥奈は始めから狙われていた。しかも、コア・リンク計画を主導する久嶋によって。 胃のむかつきも気に留めず、晴彦は椅子から立ち上がって自分のパソコンに向かった。デスクチェアに座る時間も惜しかった。晴彦はレイヤのアプリを立ち上げて、モニター上でユーザー検索を開いた。片手にスマートフォンを持って、連絡帳を開く。そこには、随分昔に佐々木に教えてもらったメールアドレスが表示されていた。晴彦はそのメールアドレスを、レイヤのユーザー検索欄に打ち込んだ。 検索結果が表示されたのは、実際には数秒もかからなかったのだろう。だが、晴彦はその時間がとてつもなく長く感じた。やがて表示された一件のユーザーのアイコンは、そっけないデフォルトのものだった。ユーザー名は【SSK@RAM-01】と表示されている。それは、赤いアイコンの付いたまごうことなきレッドフラグのユーザーだった。 晴彦はそのユーザーのプロフィールを開いたが、どう見てもただ登録されたといった感じのプロフィールだった。最小限の情報しか載っていない。しかし、何件か他のユーザーをフォローしている。晴彦は、そのユーザーのフォローをチェックした。
「……は?」
そのアカウントにフォローされているユーザーは、全てがレッドフラグだった。押し並べて赤いアイコンが付いたアカウントが並ぶ一覧は、異様ですらある。 晴彦はその一覧の中に目を滑らせていると、あるひとつのアカウントで手が止まった。そのアカウント名は【ねこね】と表示されていた。晴彦の鼓動が一瞬、強く跳ね上がる。見間違いかと思い、晴彦は【ねこね】のアイコンをタップしてプロフィールを表示した。しかし、結果は同じだった。
「なんで……ねこねさんがレッドフラグに……?」
そのプロフィール欄には、禍々しい赤いアイコンが表示されていた。
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